Writer/文筆家

ベートーヴェンと感染症

 

 1787年、ベートーヴェンは母のマリア・マグダレーナを結核で亡くした。
 1815年、ベートーヴェンは弟のカスパル・カールを結核で亡くした。

 ベートーヴェンは終生、自分も結核に罹っているのではないかと疑っていた。ちょっと咳き込むと、布を顔にあてがい、吐いた痰をじっと見つめた。濁りがないかどうか。細い糸のような血が紛れてないかどうか。思い込みだといわれても、彼は疑うことをやめなかった。決してありえない話ではない。だって、自分は母と弟をこの上なく愛していたのだから。

 彼の顔には、結核とはまた別の感染症の痕跡があった。少年時代に罹った天然痘だ。頬に点々と残るあばたは醜い。けれど、ことさら気に留める人はいなかった。天然痘はあまりに世にありふれた感染症だった。肖像画家は彼の顔をちらと見やり、なんのためらいもなく、絵筆でみずみずしいつやを描き入れた。「美化」「神格化」──そんな大仰なものでさえない。「きれいにしときますねー……」床屋が客に言うがごとくの平凡なやりとり。事務的にすみやかに過去は消されていく。こんな世間話とともに。「そういえば、知ってます?最近、効果てきめんの予防薬ができたみたいですよ」

 天然痘のワクチンである「種痘」が開発されたのは18世紀末。ナポレオン・ボナパルトはフランス軍の全兵士に対して接種を命じ、天然痘の患者はみるみるうちに減っていった。絶対にわが軍を滅ぼしてはならぬ。病の根絶への情熱は、つねに国益とつながっている。

 たとえ天然痘が撲滅されたとしても、感染症の危険は日常生活のいたるところに広がっている。途方もなく寒い夜、さびしさに負けて、街角に立つ娼婦のドレスの下に顔をうずめる。そこにもまた死の気配がある。近づきたい、慰められたい、愛されたい、愛したい。けれど命を質に入れなければ一夜の温もりは手に入らない。「どれくらい出せばいい?」おそるおそるそうたずねても、女はつまらなそうに金の単位をこたえるばかりだ。致し方ない。ほんとうの答えは誰も知りようがないのだから。

 ベートーヴェンは、弟カスパル・カールのひとり息子であるカールを自分の手元に引き取った。引き取っておきながら、少年の成長をおそれた。成長。それは、むせかえるような地下酒場でビールを飲み、魅惑的な女と出会うことに他ならない。彼は甥を徹底して監視し、寄り道や娯楽を禁じた。なんのためにそんなことをするのかと秘書はあきれた。なんのため? 「だって、感染するかもしれないじゃないか」────そう答えたかどうかはわからないが、要するにそういうことだろう。外の世界とつながる。それは死への接近に他ならない。肺を病んで、苦しみもだえながら死んでいった弟。彼はいったいどこでその病に罹ったのだろう。人ひしめく都市のなかでは感染源などわかりようもない。ただ、同じ悲劇を繰り返したくはない。都市自身だってそう言っているではないか。ウィーンの中心部にはある奇怪な柱がそびえたっている。ペスト記念柱。──17世紀後半、10万人以上のウィーン市民の命を奪ったペストの根絶を祝して造られたものだ。そう、われわれは二度と悲劇を繰り返してはならない。父と子と聖霊の名に誓って。

よろこびの声をあげよ!」「抱き合おう、もろびとよ!

『歓喜に寄す』のなかでフリードリヒ・シラーはそう宣言した。いうまでもなくそれは理想でしかない。不特定多数の人びとと一緒に声をあげること。歌うこと。抱き合うこと。それらは死と隣り合わせの危険をともなっている。ひとたび病におかされたら、もう誰とも抱き合うことは許されない。世界から隔離され、孤独な部屋で、回復か死かの危険に身をさらすしかない。シラーの言葉を借り、至上の愛を歌いながらも甥を束縛しつづけることは、ベートーヴェンにとって決して矛盾ではなかった。だって、もし感染してしまったら。自分と抱き合えなくなるのだ。だからどこにも行かないで。自分以外の誰とも手をつながないで。口づけを交わさないで。歌わないで。

 けれど崩壊の瞬間はやってくる。1826年の暑い盛りのある日、甥は伯父の束縛に耐えかねて自分の頭をピストルで撃った。────幸いにして一命は取り留めた。血を吐いて死んでいった母と弟の忘れ形見────ベートーヴェン家が残した唯一の若き命は、いまや血にまみれた額に包帯を巻いて静かにベッドに寝ている。ベートーヴェンは床にへたりこみ、天然痘の痕がのこる頬に涙を伝わせる。ようやく積年の呪縛から解放されたかのように。ひとりの人間が生まれ、成長し、愛の冒険に旅立っていく。それを永遠に拒みつづけることはできない。その旅路が、死に至る長くゆるやかな下り坂に他ならなかったとしても。わが手を離れ、もろびとの方へ、世界の方へ歩め。たとえさまざまな障害によってその道が一時的に断たれたとしても、自由こそが真の理想であることを忘れるな。「友よ、こんな音ではない」「もっと心地よくよろこばしく歌おうじゃないか」──それは彼自身が2年前にみずから五線紙の上に書きつけた言葉だった。

 ベートーヴェンは、晩年の作品のひとつである嬰ハ短調の弦楽四重奏曲(第14番)をシュトゥッターハイム男爵に献呈した。甥カールが軍隊に入るにあたって世話になった人物だった。自分がいま持っている最上の資産を、甥の未来を培うひとに捧げる。それが彼が選んだ人生最後の愛の表明だった。
甥の入隊からわずか数カ月後にベートーヴェンは亡くなった。原因は感染症ではなかった。1827年3月26日。雪がまだ地面に残る荒天の日だった。その日もまた、ウィーンの街角では、娼婦が寒さに足をすりあわせながら空を見上げていただろう。ペスト記念柱が突き刺さる灰色の雲を。そして、その雲の裂け目からのぞく、かすかな春の陽光を。

(2020年3月26日 ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンの命日に)