『ノモレ』(国分拓/新潮社)は、ペルー・アマゾンの先住民と文明との接触を描いたノンフィクションだ。
私にこの本をオススメしてくれた方は、内容もさることながら、この本の特異な手法に私が関心をもつと思ってくださったのだろう。『ノモレ』にはある大きな特徴がある。「先住民(イゾラド)」の心情を描いた幻想的なモノローグが随所に挿入されているのだ。
川を流れ下る倒木より大きな木が、上流から近づいてきた。その上には見たことのない人間が何人もいた。長い筒がこちらに向けられた。
『ノモレ』国分拓/新潮社(第一部 十、遠い声 – 2より)
わたしには分からなかった。
あの長い筒は、いったい何なのだろう。なぜ、こちらを向いているのだろう。
いうまでもなくこうした描写は諸刃の剣だ。ましてや先住民を、文明社会の成熟した穢れと対比させるかのように、素朴で純粋無垢な存在として描こうというのはたいへんに危うい。端的にいえばそれは差別に直結する。私は専門外なのであまり突っ込んだことはいえないけれど、これは文化人類学が長年にわたって議論し、自己批判と考察を重ねてきた非常に重要なテーマだ、という認識である。
上記のような心理描写は、そうした学問的な議論の俎上に乗せてしまうと「アウト」の部類かもしれない。にもかかわらず、この本がギリギリの危うさで成立しているのは、彼ら先住民(イゾラド)と接触をこころみる本書の主人公ロメウもまたアマゾンの先住民の一員だからだ。ロメウは、自分と、この突如あらわれたイゾラドたちが、かつてともに同じ一族として暮らしていた「ノモレ(仲間)」であり、ゆえに心が通じ合うと信じている。同じ血が流れているという前提があるのであれば、ロメウの心情を描くのと同様に、イゾラドの心情を描写するのも決しておかしくはない。
ロメウとイゾラドは、言葉が通じる。だから一定のコミュニケーションは取れる。ただ、本当に「心」が通じ合っているのかはわからない。ロメウの立場もまたギリギリの危うさをはらんでいる。彼はアマゾン奥地の先住民の一員であるとはいえ、ペルーの一般的な教育を受けて育ち、文明社会にコミットメントしている青年である。先住民との接触も、ペルー政府文化省からの要請を受けて引き受けた仕事だ。彼がイゾラドを見つめるまなざしは「無垢なるものへの憧憬」に満ちている。その意識の出処はほんとうに血脈なのか。それはひょっとしたら彼が文明社会で受けた教育の産物なのではないだろうか?
私が感じたその最大の疑問に本書は深く触れることはない。しかしいずれにしても、本書が詳らかにしているとおり、2010年代において、イゾラドの居住領域を文明社会から完全に隔離して守るのはもはや不可能である。時間をかけてでも少しずつ文明と融和させ、バナナの栽培を覚えさせ、予防接種を打たせるしか、彼らを生かす道はない。これは、彼らの生活や文化のみならず、彼らの「心」にも文明が立ち入らねばならぬ状況が迫っていることを意味している。先住民の心に土足で立ち入り、喜怒哀楽を容赦なく文字で書き起こす罪は、文明社会の側の誰かが負わねばならない。著者がその罪の一端を引き受けた重みが、この本に今日的な存在価値を与えている。