Writer/文筆家

【映画】「わたしの主戦場ではない戦場」で──『主戦場』

 世界は「わたしの主戦場ではない戦場」であふれている。この映画が扱っている従軍慰安婦をめぐる問題も、そうした戦場のひとつだ。
 ここでいう「主戦場ではない」とは、関心の程度とか、当事者性の有無とかではない。その道の専門家ではないという意味だ。(もちろん、多少の関心があるから、私はこの映画を観に行ったのである)

 専門家ではないとはどういうことか。自力で資料を読み解き、自力で解を見出すすべを持たないということだ。すべを持たない場合には、どうすればいいのか。力をきたえなければいけない。慰安婦をめぐる諸説のなかで、どれが信用に足りるか検討する力。ひらたくいえば見識だ。

『主戦場』は、慰安婦問題をあつかうさまざまな論客たちへのインタビューをベースにしたドキュメンタリー映画である。さまざまな人が登場し、カメラの前でさまざまな主張や見解を語る。観る人の判断はおのずと属人的なものになる。どの説を信じるかとは、だれを信じるかということだ。

 登場する人びとをフラットに並べたこのポスターのデザインは示唆的である。観る前は人間の顔の羅列だが、観終えたあとは主張を擬人化したお面のように見えてくる。太いマジックを握って、左上から◯や×や△をつけていきたい。そんな衝動にかられる。

 わたしはアカデミアの人間ではないけれど、いちおう、自分の主戦場をもっている。そこは、「A説とB説とC説、いろいろありますが、いまのところ真相は藪の中ですねえ。将来に期待しましょう」という玉虫色の物言いが許される世界だ。そういう態度が知的誠実さだと考えられているふしさえある。一概にそれが悪いとはいわない。のんびりしたムードのなかで気長に議論してなんぼという「戦場」も確かにある。

 しかし、現実に被害者がいる「戦場」では、そんな悠長なことは言っていられない。従軍慰安婦だった人びとは、多くが亡くなり、存命の人にも寿命が迫っている。慰安婦問題における知的誠実さとは、諸説をならべて悦に入るのではなく、いまこの瞬間(何年何月何日)にもっとも妥当性が高いと考えられる説を、ギリギリの模索のなかで見出し、提示することだ。『主戦場』にも、何人か、そういう誠実さをもつ専門家が登場していた。

 彼らは、自分たちの研究や学説がもたらす社会的な影響力を非常によく理解している。たとえば、「慰安婦は実際に何人いたのか」という議論について、彼らは標準的な予測数に疑義をとなえる歴史修正主義者たちの主張を一刀両断しつつも、最大予測数を安易に算出することによって、慰安婦擁護派の人びとがそれを社会運動のなかで濫用する危険性にも配慮している。あえて軽薄なことばを使うと、彼らのありようは非常にかっこいい。

 彼らをかっこよく見せているのはカメラの仕事でもある。ポスターの顔はフラットに並んでいるが、映像は必ずしもフラット(中立)ではない。登場人物の誰が○で、誰が○ではないのか、解説や補足情報を積み重ねることによって丁寧に暴いていく。過剰なバイアスがかかっているという批判の声もあるが、監督が取材をとおして「だれを信用すべきか」を見出していくその過程こそが、この映画のもっとも欠かせざる部分だ。慰安婦問題は「真相は藪の中」では決して済まされない戦場の話なのだから。『主戦場』は、さまざまな主義主張を平等に並べて、観る人の見識に判断をゆだねる映画ではない。ひとが「わたしの主戦場ではない戦場」に出くわしたときに持つべき見識のありようを、カメラを介して提示している映画である。