Writer/文筆家

【連載】『わたしが推した神』ACT1-9 「結婚したい!」から遠く離れて

 おそらくディアギレフは、南米に行くかどうかぎりぎりまで迷っていたのだろう。彼は自分の名前で1等船室をおさえていた。
 部屋は「Aデッキ 60番」──ニジンスキーの部屋の隣である。
 
 やはり行くべきだった。
 彼が休暇先のヴェネツィアで激しい後悔に襲われるのは、エイヴォン号が南米大陸にぶじ到着した後のことだ。

 船は沈没しなかった。
 バレエ・リュスの一行はぶじ、巡業先にたどりついた。しかし、彼のかけがえのない薔薇の花は、無残にも手折られ、大西洋の海底に沈んでいってしまった。ほんの少し手を離したばかりに。……

 1913年8月下旬。
 まだ誰も、大事件が起こるとは知らなかった。
 エイヴォン号の乗客たちは、後半にさしかかった船旅を存分に楽しんでいた。

 コスプレ・パーティー。
 どこからともなく持ち上がったその船上企画に、バレエ・リュスの団員たちは大喜びした。そろそろスポットライトが恋しい。その上、こちとら世界を虜にするバレエ・リュスの舞台衣装がある。アラビア風から妖精までよりどりみどりだ。俺たちのホットなパフォーマンスで、ほかの船客たちも楽しませてやろうじゃん。

 団員たちは大騒ぎしながらコスプレの支度に明け暮れた。途方に暮れているのはロモラだけだ。まだ舞台に立ったことがない彼女は、自分の衣装を持っていない。
「ハンガリー人なら、やっぱりジプシーじゃない?」
 みんながそう言うので、2等船室のダンサーからそれらしき服を借りて、アンナに手伝ってもらいながら身にまとってみた。「いいんじゃない」とみんな褒めてくれる。けれど、ロモラ自身はどうもしっくりこない。

「考えてみたんですよ。あなたにぴったりのコスチュームを」
 ふいに話しかけてくる人がいた。バレエ・リュスの幹部、ギンツブルクだ。眼を細め、どこかまぶしげにロモラを見ていた。

あなたは、とてもスリムですね。まるで少年のようだ

 ロモラは目をまるくした。わたしが少年? そんなことを言われたのは、はじめてだった。
「髪の毛を隠して、短く見えるようにして。それから、これを着てごらんなさい」
 渡されたのは、上等そうな薄い緑色の紳士用パジャマだった。
 
 半信半疑で、船室の鏡の前に立つ。
 はっと息をのんだ。
 そこには、バレエ・リュス風にプロデュースされた自分がいた。

 ぶかぶかな服だからこそいっそう際だつ、すらりとした身体。襟元からのぞく尖った鎖骨。しなやかな首。
 パパのパジャマを着た、いたずらっ子の坊や。そんな雰囲気だ。

 ────少年のようだ。
 ギンツブルクの言葉が脳裏によみがえる。
 
 ────女のようだ。
 黒い仮面をつけたアルルカンが、鏡のはるか向こうにぼんやりと浮かんだ。

 ディアギレフがこれを見たら、いったいどう思うだろう。「ほう、いけるじゃないか」ひょっとしたらそう言って、あの眠たそうな眼をきらりと鋭く光らせるかもしれない。きみは第二のイダ・ルビンシュテインかもしれない。新作では、ぜひきみの役を用意しよう。
 悪い気はしなかった。わたしも、何かの役になれるかもしれない。ひょっとしたら、ニジンスキーの振付作品にだって。舞台の上で、まばゆいライトを浴びて。想像するだけで心がおどった。
 けれど同時に、得体の知れない不安が腹の底からこみあげてきた。自分が知らない自分の姿を、無理やり鏡の前に引きずり出された気がした。

 ──────性って、なあに???

 震えながらパジャマを脱ぎ捨てる。船室のクローゼットを開けて、いちばん可愛いデザインの夜会ドレスをひっぱりだした。癖のついてしまった髪を、櫛で必死にとかしつける。動悸がおさまらない。階下のレストランから、団員たちのはしゃぎ声がかすかにきこえてくる。

「あれえ? ロモラ、コスプレしないの?」
 みんなが話しかけてくる。ぶんぶんと首を振って、パーティー会場への階段を降りていった。レストランは、仮装に身を包んだ人びとでごったがえしていた。女奴隷に侯爵。ムードメーカーのボルムは、衣装をたくみにアレンジして、古代バビロニアの王様に化けている。バレエ・リュスの団員たちは、ほかの船客と比べてずば抜けて目立っていた。
 仮装していないのは自分だけだ。そう思った矢先、ロモラは階段の途中ではっと足を止めた。もうひとりいる。

 ニジンスキーだった。
 バレエ団の絶対的エースは、階段の下で、パーティーの喧噪をもてあますように立っていた。ごく普通のいでたちで。
 気配を察したのか、彼も階上のロモラを見あげた。そして、どこかほっとしたように息をついた。──それはたぶん、気のせいではなかった。
 華やかなコスプレイヤーたちにまぎれた、平凡な青年と平凡な娘。

 仮装しているのは彼らなのか。
 それとも、わたしたちなのか……?

 部屋に脱ぎ捨てたままの薄緑色のパジャマの残像を頭に思い浮かべながら、ロモラは目の前で繰り広げられるダンスの饗宴を眺め続けた。

 パーティーは翌朝まで続き、バレエ・リュスの団員たちは何かに取り憑かれたように一晩じゅう踊り狂った。
 ニジンスキーはとうとう1曲も踊らないまま、夜中の1時ごろ、ふっと姿を消した。目が合ったのも、安らいだ表情を浮かべたのも、過ぎてしまえばすべてが幻のようだった。

 ロモラは、ニジンスキーに積極的に近づくのをやめた。
 何日かたつと、避けるようにさえなった。
 そのせいか、周りの人たちは、ロモラが彼を怖がっているのだと思いこんだ。追っかける姿は隠していたが、避ける姿はうっかり隠し忘れていた。そのせいか、妙に心配されはじめる。とうとう諭してくれる人まで現れた。

「ニジンスキーは、舞台の上では『舞踊の神』です。しかし、ふだんはわれわれと同じ人間なんですよ」
「そんなに怖がらないで。とてもいい青年なんですから」

 わかっている。別に怖いわけではない。ニジンスキーはとても紳士的だ。話しかければ片言なりにていねいに返事するし、去りぎわには誰よりも深々とお辞儀をしてくれる。
 ただ、目を合わせても、誰に取りもってもらっても、どれだけ明るく話しかけても、たったいまはじめて会ったような態度を取られるのはもう耐えられなかった。いい加減、顔くらい覚えてほしい。覚えているのなら、「やあ、また会いましたね」くらい言ってほしい。ただのファンだと思われているのか。いや、むしろファンだと思われていないからこうなのか。もう何もわからない。
 わかるのは、彼が対人的な意味でまったくショービジネス向きの人間ではないことだけだった。

 おせっかいな人が、ロモラの腕をとり、デッキにいるニジンスキーのところまで引っ張っていく。暗がりで愛を交わし合っている数人の男女を蹴散らしながら。
 ニジンスキーは、月明かりの下、金色の薔薇をえがいた扇子をあおいでいた。一緒にいるのは、ロモラのランチ仲間のひとりのコヴァレフスカ。話しているのはポーランド語だ。

 ニジンスキー君。ここにご紹介したい女性がいる。
 ああ、そうですか。こんにちは。

 これまでもう何度、こんなやりとりを繰り返しただろうか。

 コヴァレフスカにうながされるまま、ロモラはしゃべりはじめる。あなたの踊りはほんとうにすばらしい。ダンスをほかのさまざまな芸術の域にまで高めてくださいましたわ。──コヴァレフスカの通訳をニジンスキーは無言で聞いている。南半球の8月終わりの夜に映える優雅なシルエット。なんて美しい人なのだろう。うっとりした気持ちとはうらはらに、絶望感がじわじわと喉に這い上がる。彼だって、こんな歯の浮くような賛辞はもう飽き飽きしているはずなのに。

 そのときふと、ニジンスキーの視線が自分の指に注がれているのに気がついた。少し風変わりな指輪だ。コガネムシに頭をつぶされた金色の蛇が、月の光を浴びてつややかに光っている。

「これはわたしの父が、エジプトから持ち帰ったものです」
 ゆっくりとロモラは言い、指輪をはずして、ニジンスキーの手のひらに置いた。
「この指輪の持ち主に幸福をもたらしてくれる、という伝説があるんです。バレエ・リュスのみなさんと出発するとき、母がくれたんです」

 そう、母はわたしをしぶしぶ許した。パリやロンドンならまだしも、南米旅行だなんて! 気絶しそうになる母を説得して、つまりは母を騙して、わたしはここまで来たのだ。「お約束します。お嬢さまは俺が責任を持ってお預かりしますから」ボルムにそんな説得のセリフまで言わせて。

 ヴァーツラフ・ニジンスキー。あなたを手に入れられるなら、この世の誰を裏切ってもいい。あの世の最果てまでも追いかけたっていい。
 ここまで想っているのに、認知さえしてもらえないんですか?

 彼はしばらくその指輪を眺めていたが、ロモラの手をとり、指にはめて、ポーランド語でやさしく言った。
「この指輪は、きっとあなたに幸福をもたらすでしょうね」

 口元にはかすかなほほえみ。背後には生まれてはじめて見る南十字星の輝き。いつものように優雅なお辞儀をして、去っていく。気絶しそうだ。推しがわたしの手に触れて、指輪をはめてくれた! 一生の思い出にしてもいいくらいのシチュエーションだ。『春の祭典』の群舞の百姓のひとりになって、デッキの端から端まで足踏みして回りたい。ああ、今夜は最高の気分。寝る前に、「プラハの奇跡あふれる十字架」の絵の前で神様に祈る。どうか明日は、もっと彼に近づけますようにと。

 でも、月が水平線のかなたに沈んでいき、太陽がのぼってくる朝。ベッドの上で伸びをしたときには、もうその幸福感は消え失せている。
 ああ、きっと、またふりだしに戻ってしまったにちがいない。
 船室を出て、さんさんと降り注ぐ朝日の下でニジンスキーとすれちがう。彼はあいまいなお辞儀をするだけだ。やっぱり。同じエレベーターに乗り合わせる。レッスン着とおそろいの珊瑚色のかわいいバレエシューズをはいているのに、一瞥だにしてくれない。やっぱり。デッキの上で、何度も何度も彼の前を通っても、なんの反応もない。やっぱり。……

 ────ここまで、か。

 アンナは、ロモラの静かなあきらめを感じ取っていた。
 船はまもなく、ブラジルのリオ・デ・ジャネイロに着こうとしていた。西の水平線にはもう灰色の長い線が見え始めている。15日目のカレンダーをはがしながら、彼女は哀れなお嬢さまに優しくとどめを刺した。ハンガリーの古いことわざを引用して。

「わたしなら、いやがる馬に無理やり水を飲ませようとはいたしませんわ」

 ところが、その翌日。

「来てください、大事な話があります」
 ギンツブルクから声をかけられて、ロモラは凍り付いた。
 バレエ団の幹部がわざわざ自分を探しにやってきて、真顔でそう宣告してきたのだ。いい知らせとはとても思えない。あー、ド・プルスキーさん。あなたのレッスンを見たんですがね。失礼ながら、まったくもって見込みなしだ。南米公演について回られたら迷惑です。グリゴリエフもそう言っている。リオ・デ・ジャネイロに着いたら船を下りて、そのままブダペストに帰ってもらえますかね。

 あれー? ロモラ、なんか悪いことでもした?
 周りの団員が笑ってからかうが、当のロモラは笑えない。いったい何? 不安で泣き出しそうになりながら、ギンツブルクの後ろをついていく。デッキの人気のいない場所までたどりつくと、彼は立ち止まり、ロモラにおそろしく真剣なまなざしを向けた。

「まるで少年のようだ」
 つい先日、ロモラにそう告げた真実の唇が、いまふたたび開いた。

「ロモラさん。ことばの問題で、ニジンスキーはあなたと直接お話ができません。でも彼は、こう伝えたいとわたしに頼んできたのです。

 あなたと結婚したい、と」