Writer/文筆家

【連載】『わたしが推した神』ACT1-2 会いに行けないバレエダンサー

「いない……」

「赤のサロン」の片隅で、ロモラは失意をかみしめていた。
 母エミリアの社交好きな性格のおかげで、プルスキー家は、昔からブダペストの文化人たちの溜まり場になっていた。国外からやってきたアーティストも、人脈を求めて彼女のもとを訪ねる。
 バレエ・リュスのダンサーたちは、この新居に招かれた最初の外国人アーティストとして、サロンで終演後のひとときを満喫していた。

 バレエ・リュス。
 彼らは、旅するバレエ団だ。
 1909年にパリでの初公演を成功させて以来、モンテカルロ、ローマ、ベルリン、ロンドンなどヨーロッパ各地をめぐり、行く先々でレパートリーを披露した。新興のバレエ団でありながら、評判はすでに世界じゅうに聞こえ、行く先々で熱狂的に出迎えられていた。
 東欧有数の大都市であるブダペストで公演を行うのは、今回がはじめてである。

 ロモラは連日連夜、劇場にいそいそと出かけ、ニジンスキーが舞台に現れるたびに身を乗りだした。
 バレエ・リュスのオリジナル・レパートリーは小品が多く、一回の公演で複数の作品が上演される。通えば通うほど、たくさんのレパートリーを鑑賞できる。『クレオパトラ』『ポロヴェツ人の踊り』『ペトルーシュカ』──。ニジンスキーばかりを目で追っているといっても、さすがにいろいろなダンサーの顔を覚えていく。
 終演後や休演日となれば、出演者やスタッフたちは食事や観光のために街に繰り出す。運良くばったりと出くわせば、気軽に話しかけることもできる。さながら「会いに行けるダンサー」だ。
 その上、ロモラには母親のサロン・ルームという最強のアドバンテージがある。彼女は出待ちよろしく、エントランスの獅子像の陰からこっそりと、入れ替わり立ち替わり現れるダンサーたちの姿をウォッチした。

 ところが、かのひとは一向にやってこない。

 ヴァーツラフ・ニジンスキーの姿を見かけたのは、母のサロンではなくホテルのレストラン。しかもたったの一度きりだった。ミステリアスな黒い仮面を外し、ごくありふれた紳士用コートを着たニジンスキーは、遠目とはいえまったく目立たない青年だった。周りの一般人の男性と比べても、特に背が高いわけでも、手足が長いわけでもない。顔は東洋人のように彫りが浅くあっさりとして、そのせいか、年齢よりも幼く見えた。

 この冴えない印象の青年が、舞台化粧をし、衣装をつけ、スポットライトを浴びると、えもいわれぬ妖しいムードを放つのだ。いったいその魔力はどこから生まれるのだろう。
 もっと近づいてみれば、秘密がわかるだろうか。
 フォークを皿の上に置いて席を立ったが、人波をかきわけた先にはもうその姿はなかった。

 一方、ニジンスキーに次ぐ人気を誇るダンサー、アドルフ・ボルムは、あっという間に母のサロンの常連になった。野性的な風貌とダンスで、年配のマダムから若い乙女までを魅了させていた彼は、舞台を降りれば優しい兄貴肌の男で、お屋敷のお嬢さまであるロモラにも気さくに声をかけてくれた。

 なんでこの人とはあっさり会えて、ニジンスキーとは会えないわけ!???

 そんな恨み節を言ってもはじまらない。作戦だ。ひとまずはこのボルムと親しくなって、ニジンスキーの情報を聞き出そう。
 ブダペストの観光案内を申し出て、ロモラはボルムを外に連れ出した。半世紀以上の歳月をかけ六年前に完成した聖イシュトヴァーン大聖堂、ドナウ川にかかる優美なセーチェーニ鎖橋、亡き父が勤めていたアカデミー……「東欧のパリ」とも呼ばれたこの街の美しさに見ほれ、ボルムの口は自然と軽くなった。

 ボルムも含めて、バレエ・リュスのダンサーの多くは、ロシアが誇る帝室バレエ団の出身である。
 ロシア=バレエ大国のイメージを作り出したのは、彼らや先輩世代のダンサーと振付家だ。『眠れる森の美女』や『白鳥の湖』といった名作の数々を世に送り出し、クラシック・バレエの黄金期を築いた。

 そんな彼らの高いダンス・スキルを武器に、ヨーロッパにロシアの芸術を知らしめようと乗りだしたのが、セルゲイ・ディアギレフという男だった。地主貴族の家に生まれ育ち、当初は美術キュレーターとして活動していたが、だんだんとオペラやバレエの舞台プロデュースに取り憑かれていく。

 ディアギレフにとって、ヴァーツラフ・ニジンスキーは世にまたとない逸材だった。
 実の父もバレエダンサー。倍率10倍以上の難関をくぐりぬけて帝室バレエ学校に入学したニジンスキーは、クラスメイトのなかでも抜群のテクニックを誇り、デビュー前から注目を集めた。学校を卒業してマリインスキー劇場に所属すると、すぐに大役を任され、マティルダ・クシェシンスカヤほか名バレリーナの相手役をつとめるようになる。

 しかし彼の踊りにひそむ不可思議な色気を見いだし、ただの王子役では物足りないとばかりに奴隷や道化役をプロデュースして、観客の度肝を抜かせたのはディアギレフだった。昨年にはマリインスキー劇場を辞め、バレエ・リュスの専属ダンサーとして活躍している。

「今じゃこのバレエ団の顔といってもいいエースだ。ディアギレフはニジンスキーに惚れ込んでいる。先輩のミハイル・フォーキンが妬くくらいにね」

 しかし……
 気さくなボルムも、ニジンスキーのプライベートな情報は頑として明かさない。客と同伴デートはしても、線引きは心得ているのだ。焦りがつのる。バレエ・リュスのブダペスト滞在はわずか数週間。もうすぐ、団員たちも、かの運命の人もいなくなってしまう。

 なんとしてもチャンスをつかまえなくては。バレエ・リュスの次の巡業先はウィーン。ブダペストからは列車で4時間だし、同じオーストリア=ハンガリー帝国内だ。結婚した姉のテッサも住んでいる。追いかけるのは難しくない。

 そのあとは──?
 そのあとだって、追いかけるしかない。どんな手を使ったって。

 いったい、ニジンスキーはブダペスト公演中にどこにいたのか。
 もちろん、ボルムは答えを知っていた。

「最高のご新規さん、ゲットです!
 うまくいきゃ、いいパトロンになってくれるかも。なにしろあの女優の家、とんでもない成金屋敷ですからね。しかも、この家のお嬢さんが俺たちの公演に夢中ときたもんだ。毎日、劇場の一等席にお越しですよ」

 ひょっとしたら、すでにそんなタレコミ情報を送っていたかもしれない。団員より一足遅れて、ようやくブダペストの「ハンガリー・ホテル」に到着したディアギレフのもとに。そして彼のベッドの上で、毛むくじゃらの胸に甘えるようにもたれ、うっすらと薔薇のほほえみを浮かべているニジンスキーのもとに。

 なるほど。してみると、ブダペスト公演は成功と考えていいだろうな。

 ディアギレフはほくそえんだ。
 いうまでもなく彼にはわかっていた。魅力的な男性ダンサーやファッショナブルな世界観に惹かれて劇場に足を運び、惜しまず課金してくれる女性ファン
 彼女たちこそが、バレエ・リュスを支えてくれる柱であることを。

 そして、いま彼の腕のなかにいる恋人こそが、バレエ・リュスのセンターに君臨する絶対的エースだということを。