Writer/文筆家

【連載】『わたしが推した神』ACT1-3 遠征費がほしい!

 

 実際、この“ご新規さん”──ロモラ・ド・プルスキーの情熱は凄まじかった。

 ウィーン巡業にまでくっついてきて、客席で目をらんらんと輝かせている。そこまではまだわかる。わずか1ヶ月後に、はるばるパリのシャトレ座にも姿を現したときには、さすがにボルムやほかの団員も仰天した。20歳そこそこのハンガリー娘が、パリの貫禄と気品に満ちた紳士淑女たちに混ざって、一等の席に座っているのだ。
 ファッションもずいぶん垢抜けた。Vネックが際立つポール・ポワレの東洋風夜会ドレスに、羽飾りのついたターバン。小さなポシェットからのぞくのは、流線型の細工を凝らしたコンパクトとシガレット・ホルダー。もはやパリジェンヌに引けを取らない。
 その横には、もうひとり若い女性がいる。こちらはめかしこんでいる様子がないから、ハンガリーから連れてきた使用人(シャペロン)だろうか。口を半開きにして、押し付けられたパンフレットをのぞきこんだり、馬蹄のかたちをした天井のカーブを仰いだりしている。

ひゅーっ、ブダペストのお嬢さまは違うねえ
 団員たちは真っ赤なサロン・ルームを擁した豪邸を思い出し、あらためて舌を巻いたに違いない。

 しかし、「パリ遠征」に至るまでの道のりは、決して平坦ではなかった。

 なにしろ婚約破棄とはおおごとだ。
 母のエミリアは激怒した。彼女も決してバンディ・ハトヴァニ男爵を気に入っていたわけではない。結婚の荷を負うには若すぎるし、いきなり娘の身体に手を出して泣かせる不器用さもいただけない。もとより彼をロモラに引き合わせたのは、エミリアではなく亡き夫の妹だ。彼女は、次女が母たる自分より叔母になついているのを快く思っていなかった。
 とはいえ相当に裕福であることは疑いようがなかったし、話が進んだからには盛大に送り出してやるつもりだった。こんなタイミングで破談なんて、ありえない。いったい、どうしてなの。言ってごらんなさい。
 ロモラはこぶしを握って力強く叫んだ。

わたし、ダンサーになってバレエ・リュスに入団したいの!

 腰を抜かした。娘の顔をまじまじと覗き込む。完全に瞳孔が開いている。やだ、この子、コカインでも吸っちゃった?

 あまりに突拍子もない宣言に、かえって冷静さをとりもどした母は、舞台に立つ職業人らしく娘をさとした。──あのね。私は、子どもの頃からずっとあなたが心配だったわ。おとなしくって、ひどくデリケートで、しょっちゅうおかしな悪夢をみては泣いて、何を考えているかわからなくて、最近はじめた演劇学の勉強だって熱心には見えなかった。そんなあなたが、夢中になれるものを見いだしたのはいいことよ。
 でも、とても残念だけれど、今からお稽古してもダンサーになるには遅すぎるわ。ましてあのバレエ団にいるダンサーなんて、エリート中のエリートなのよ。子どもの頃からバレエ学校でどれだけ厳しい訓練を受けてきたか、ボルムさんから教えてもらったでしょう?…………

 ロモラはすでに腹を決めていた。「結婚したい人ができた」ならまだしも、その相手がまだ口も聞いたことのない花形バレエダンサーだとはさすがに言えない。ほんとうの動機は秘密だ。わたしはバレエ・リュスの大ファンで、好きが高じて、バレエ・リュスに入団したくなった女の子。これがロモラ・ド・プルスキーの公式設定だ。決して嘘はついていない。結果として、結婚という野望が叶えばそれでいいのだ。

 ロモラは継父のオスカー・パルダニーにも相談を持ちかけた。実父カーロイの没後、母と再婚した相手である。品のいい口ひげをたくわえたユダヤ系の紳士で、もともとは女優エミリアの熱狂的なファンだった。パパっ子だったロモラにとっては長年の天敵だったが、今回に限ってはいい理解者になってくれるかもしれない。探りを入れてみよう。
 ところがこの継父も、首をたてには振らない。

「うちにはあまりお金がないんだよ」
 愕然とした。予想外の答えだった。
「この屋敷を建ててしまっただろう。それに、エミリアは浪費家だから」

 ダンサー志望を反対されたこと。家に財産がないこと。
 二重のショックをロモラは味わった。信じていた幸福が崩れていく。はりぼての富豪。これがブダペストに知られる名家の実態だ。ぜいたく好きの母にも、この腰巾着まがいの継父にも怒りがわいてくる。自分は母を舞台袖まで追いかけ回して、未亡人のさびしさにつけ込んで、結婚に持ち込んだくせに。おまけに、再婚しても姓を変えたくない、「エミリア・P」という芸名を名乗りたいという母の望みに乗じて、どういうわけか自分まで「P」のつく名字に改姓してしまった。プルスキー一族の人びとは呆れ返り、それ以降、叔母と母の仲も険悪になってしまったのだ。なんて身勝手な人だろう。自分だけが欲望のまま突っ走って、義理の娘にはそれを許さないつもり?

 別れようとしている婚約者の顔がふたたび目の前をよぎった。ハトヴァニ男爵家はいまをときめく商人の一族だ。バンディもゆくゆくは大事業を担い、莫大な富を稼ぎ出すだろう。見込みのある貴公子を青田買いする。自分が祝福される生き方はそれしかなかったのかもしれない。人妻になって、あのすてきな義母と姉妹みたいに仲良くなって、めいっぱいパリ風のお洒落を楽しんで、趣味として、あるいは罪のない小さな浮気として、劇場で男性ダンサーたちの肉体美にきゃあきゃあ騒いだり、夜な夜なパジャマ姿でベッドの上に集って解釈談義を交わしたりする。そんな人生の道もたしかにあったのだ。

 でも、それはだめ。だって、わたしはわたしの神以外と「結婚」したくないんだもの。

 最後の頼みの綱だ。ロモラは泣きながら叔母のポリーに連絡を取った。
 母と継父が反対しているのだ。彼らと仲の悪い叔母は、きっと逆張りの行動に出るだろう。そんなロモラの予想はあたった。

「われわれド・プルスキー家としては」──叔母の声は、女王のごとく威厳に満ちていた。「あなたの望む道を認めましょう。婚約も破棄してよろしい。ただし、いくつかの条件付きでね」
 ──まず、ひとりきりで遠くに旅するのは絶対にだめよ。うるさい老執事を連れて歩けとはいわないけれど、せめてシャペロンを連れておいきなさい。アンナがいいんじゃない? あの子、若いのに気が利くから。
 それから、いちばんの問題はお金ね。旅費でしょ、バレエのレッスン代でしょ、服だって買わなきゃいけないし……

ああ、そういえば、土地があるわねえ……

 土地!? ロモラは椅子から躍り上がった。叔母は泰然とうなずく。ええ、亡くなったあなたのお父様が土地を運用していたのよ。あなたに割り当てられる配当金も少しあるはず。管財人に連絡を取ってあげるから、あとは自力でがんばりなさい。

 ユダヤ人銀行家の管財人は、母からの許可なくこの若い娘に分配金を渡すのをためらった。しかしロモラは必死だ。なにせ、パリでニジンスキーに会うための金が目の前にある。泣いたりおだてたりの交渉を重ねて、なんとか定期的な金の受け取りの約束を取り付けた。やった!

 ベッドの脇に掛けてある「プラハの奇跡あふれる十字架」の絵の前でひざまずき、感謝の祈りを捧げまくる。
 天にまします父よ、そして大好きなパパよ、ありがとう。やっぱり、金持ちの家にはどこかにあぶく銭が眠っている。プルスキー家に生まれてよかった!