Writer/文筆家

【連載】『わたしが推した神』ACT1-7 性って、なあに?

 フランス・カレー行きの列車に乗り込みながら、ロモラははしゃぎまくっていた。

「ねえアンナ、あなたスパイになれるんじゃない?」
 肩をすくめて、使用人(シャペロン)のアンナは隣の座席に身を沈めた。ロンドンまでの道のりは長いというのに、すでに疲れている。ニジンスキーが乗る列車を調べてこいという命を受けて、先ほどまであちこち奔走していたのだ。そのかいあってか、真昼のパリ北駅のプラットホームにぶじ彼の姿を見つけ、ロモラは勝利の悲鳴をあげた。

 ところが喜びもつかの間、席に座っても落ち着きがない。新聞を顔にあてがって、
「”プティ“は、隣の車両にいるみたい」
と、ごにょごにょ言う。アンナは眉をひそめた。で、なんで顔を隠してるんです?
「だって、ディアギレフに見つかっちゃうかもしれないじゃない」
 巡業に同行する許可は得ているはずだ。要は「ニジンスキー推し」がバレたくないらしい。

 まったく、うちのお嬢さまときたら……。
 アンナは深々とため息をついた。

 この娘は叔母のポリーが推薦しただけあって、なかなかデキるお目付役(シャペロン)だった。ハンガリーの中上流階級の令嬢は、こうした同性の世話焼き役を連れて歩く習慣があったが、彼女の有能ぶりはわけても抜群だった。巡業先の新しいホテルに着けば、お嬢さまがくつろげるよう速やかにクッションや銀の花瓶を並べ、ベッドの脇には「プラハの奇跡あふれる十字架」の絵を掛けてやる。バレエ鑑賞のおめかしを手伝い、劇場に同行し、ショッピングやとりとめもないおしゃべりにもとことん付き合ってやった。
 アンナは、ロモラの野望を知っている唯一の人物でもあった。ありふれた風貌の娘なのをいいことに、ニジンスキーの動向をさぐるための諜報活動にも駆り出された。トップ・シークレットを誰かに知られるようなヘマは決してしなかったが、当のお嬢さまに対しては女友達のように容赦ない口をきいた。

「いい加減にしたらどうですぅ。アイドルにガチ恋なんて不毛ですよ、不毛っ」
 そんな類のツッコミを日々入れまくっていた。
「バレエ・リュスの絶対的エースですよ? あんな大きな劇場で、センターで踊ってる人ですよ? ぜーったい無理ですって」
 しかしお嬢さまはひるまない。
「ねえ、プティがいつ食堂車にランチを食べに行くか調べてきて」
 ”プティ(愛しい人)“というのは、ふたりの間だけで使われているニジンスキーを指す隠語だった。やれやれと腰を上げて、アンナは食堂車に偵察に行った。ところがウェイターは情報を教えてくれない。戻ってきてそれを告げると、ロモラは怒ってしまった。もういいっ。
 新聞を丸めると、こんどは別の小道具を探しにバッグを漁る。取り出したのはタバコだ。パリジェンヌめいた気取った仕草でくわえると、すっくと席を立つ。
「自分でなんとかする」
 隣の車両へ乗り込んでいく姿をやれやれと見送ってから間もなく。ものすごい勢いで席に駆け戻ってきた。顔が真っ赤だ。

「きゃーーーっ」
 ちょ、ちょ、ちょ、なんです、なんです???
「話しかけられちゃったーーー!」
「プティから?」
 話によると、隣の車両の窓際でタバコをふかしていたところ、いつの間にかニジンスキーが隣にいたのだという。あたりを見回したが、ディアギレフの姿はない。どうやら同行していないようだ。煙も震えるくらいにドキドキしていると、たどたどしいフランス語で「あなたは、ロンドンに行ったことはありますか?」と訊かれたという。

 でも、いったい何語で答えたんです?
「フランス語で」
 …………それ、通じなかったんじゃありません?

 そんなツッコミをよそに、ロモラは座席の上に萌え転がっている。呆れ返って見ていると、息もたえだえといった様子でこう口走った。
「……シャム猫みたい」
「は?」
「わたし、昔シャム猫を飼ってたの。すごく似てる」
 世紀の大発見のように眼を輝か
せている。アンナは肩をすくめた。ああもう、本当に困ったお嬢さんだこと。

 シャム猫みたい……
 その発見を喜ぶだけで満足すればいいのに。どういうわけかシャム猫を飼いたがるのだ。この人は。

 でも、ニジンスキーを我がものにするだなんて、やっぱり不可能なんじゃありません?
 ディアギレフから許可を得て、巡業に同行するようになってからもう半年。それなのにニジンスキーといっこうに距離を縮められず、ちょっとおしゃべりできたくらいでこんなに浮かれているのだから。……  

 アンナの懸念はごもっともだった。
 チェケッティとの特別レッスンを開始し、劇場や楽屋に堂々と出入りできるようになると、ロモラは自らスパイとなって団員や関係者たちに近づいていった。ディアギレフから許可を得た研修生だと言うと、みんなとくに警戒することもなく話の輪に入れてくれる。ニジンスキー推しという事実を秘密にしつつ、それとなく情報を聞き出すにはうってつけの環境だ。
 すると、ロモラの真意を知らないだけに、なんの気なしに重大情報をぶっこんでくる者もいた。

 ──え? なんでニジンスキーがいつもディアギレフにガードされてるかって? そりゃ要するに、

「あのふたりはデキてるからな」

 ロモラは固まった。
 いや、全宇宙が固まった。地球が自転を止め、公転を止め、星がまたたきを止めた。

 え?

 団員は、タバコの煙を口の端からこぼしながらこちらを見ている。

 ──あれっ。もしかして知らなかった? おーい、ロモラちゃーん。

 ロモラはもはや固まっていなかった。ただ、震えていた。大地震のごとく震えていた。

 いったい……どういうこと?


 もちろん、ロモラも概念くらいは知っていた。
 同性愛。
 1913年当時、その概念はすでに世に知られていた。「同性愛は不自然だ」「同性愛を罰せよ」「同性愛者の見分け方」「同性愛者の治し方」──あるときは異常な趣味として、あるときは現代の奇病として、新聞や雑誌は同性愛を日々さかんに取り上げた。
 この概念が爆発的に広まったのは、1895年の詩人オスカー・ワイルドの逮捕だった。「(男同士の)猥褻行為」にふけったという罪で、最終的に有罪判決がくだされたこの事件を、大衆紙は格好のゴシップとして取り上げた。人びとはワイルドの風刺画を指差し、売れっ子詩人から受刑者へと転落した彼をあざ笑った。

 いうまでもなく、ワイルドの逮捕に異議を唱える人びとも多くいた。ロンドンやパリなどの大都市では、すでに同性愛者と支援者のコミュニティがアンダーグラウンド・カルチャーを形成していた。ロンドンのブルームズベリー・グループには、ヴァージニア・ウルフとその姉ヴァネッサ、若き経済学者のジョン・メイナード・ケインズ、ケインズの恋人であった画家ダンカン・グラント、同性愛の葛藤を描いた小説家エドワード・モーガン・フォースターなどが集った。パリ近郊では、同性愛者を公言する作家のナタリー・クリフォード・バーネイが女性専用の文学サロンを開き、作家のコレットや女優のサラ・ベルナールなどそうそうたる女性文化人が常連となっていた。ダンスの世界でも当事者は多かった。ミハイル・フォーキンに影響を与えたモダン・ダンスの開拓者イサドラ・ダンカンも同性愛者であったという説がある。

 ロモラは芸術一家の生まれでこそあったが、そうした大都市のカルチャーとはほとんど縁なく生きてきた。「同性愛」なんて、どこか遠い世界のこと。そう思っていてもふしぎではない。いきなり推しが宇宙人だと告げられたも同然だ。
 たしかに舞台の上のニジンスキーは、女性とみまごうくらい美しい。でも、身体は男性だし、普段は男性の格好をしている。ひょっとして外見は男性だけど、実は心の中は女性なのだろうか。それなら、踊っているときのしぐさが女性的なのも、男性を愛するのも納得できる。じゃあ、ディアギレフのほうは? 見た目はどうみても太ったおじさんだけど???

 生まれつきの性別がどうであるか(身体の性)。どういう服装や話し方をするか(性表現)。自分自身の性別をどう考えているか(性自認)。どういう相手に恋愛感情や性欲を示すか(性指向)。現代においては、これらはすべて別個に考えるべきだとみなされている。だが、もちろんロモラにはそんな見識はない。「生まれつきなのか、環境が要因なのか」「異性愛者は何が同じで、何が違うのか」「治療できるのか、治療すべきなのか」──学者や医師でさえ、まだ初歩的な議論にとどまっていた時代だ。
 断片的な知識と、ニジンスキーやディアギレフへの表面的な印象がごちゃごちゃに入り乱れる。頭の中は疑問符でいっぱい。性って、なあに???

 考えあぐねた末に、とんちんかんな反論も飛び出す。

 でも、ニジンスキーは女性ダンサーとだって踊るし。
 それに、彼自身が振り付けた作品だって、男と女が登場するじゃない。『牧神の午後』だって、『春の祭典』だって。

 ──そうはいっても、あの『遊戯』っていう作品さ。

 5月にパリで初演された、ニジンスキーによる振付作品だ。ロンドンの公園で、男性ひとりと女性ふたりがテニスをして遊んだり、ちょっとした恋のさやあてに興じる様子を描いている。

 ──あれは、もともと男3人って設定だったんだってさ。さすがに露骨すぎるってことで、ディアギレフがやめさせたらしいぜ。

 ──それに知ってる? あの「タイツ事件」。
 ニジンスキーがまだマリインスキーで踊っていた頃の話さ。彼ははじめて『ジゼル』のアルブレヒト役をもらったんだけど、ベルト付きの短いチュニックとピチピチのタイツだけで舞台に出て行っちゃったのさ。お堅い帝室劇場の連中にとっちゃ、「丸見え」にひとしい衣装だ。客席も関係者も、ニジンスキーのハレンチな衣装に大騒ぎ!
 あの事件の黒幕もつまりはディアギレフってわけ。ピチピチのタイツってのはいかにも彼のご趣味だしね。フランスのメディアを使って事件を拡散させて、クビになったニジンスキーへの同情の声を集めたところで、彼をバレエ・リュス専属ダンサーとして引き抜く。完璧な筋書きだ。

 ──ま、ウチはそういうところだから。
 ──プロデューサーに抱かれなきゃ、センターには立てない。しかも男だけ。
 ──不服なら、フォーキンみたいに出て行くしかないね。

 それが暗黙の了解といわんばかりに、ダンサーたちはうなずき合うのだった。

 ──でも、そこがバレエ・リュスの魅力でもあるってわけよ。要するにファンの女性だってさ、そういうムードに惹かれてウチらを追っかけてくれてるわけじゃん?

 頭がくらくらする。ということは、自分も「そういうムード」に吸い寄せられた女のひとりなのだろうか。
 牧神に化けた彼が、舞台の上で絶頂に達する。そんなシーンを生み出したのが彼を愛している男性なのだとしたら、わたしはその男性のプロデュースを通して彼を見ているにすぎない、ということなのだろうか。プロデューサーとダンサー、男ふたりの性愛の世界を。自分=女が決して立ち入れない舞台を。

 一方、団員たちの間にはこんな噂も流れていた。

 ──とはいえあのふたり、最近じゃ、険悪な空気らしいぜ。
 ──ディアギレフが、ニジンスキーと喧嘩したあと公園でひとり泣いていたってな。
 ──ディアギレフは根っから「そっち」の人だけど、ニジンスキーのほうは案外そうでもないって説もあるぜ。

 たしかにそうと思われるふしもあった。ロモラはパリの街角で、ニジンスキーとよく似た青年が、娼婦とおぼしき女性と並んでいる姿を見かけていた。そのときはショックを受け、あれは見間違えだと自分に言い聞かせていたが、疑惑を知った今となってはむしろ希望だ。
 もしもニジンスキーが女性を抱けるならば、わたしだって門前払いはされないはず。

 それに……。
 ディアギレフとの関係は、ほんとうにニジンスキーの本意なのだろうか。

 バレエ・リュスが結成されたとき、彼はまだ20歳にもならない青年だった。ディアギレフの催眠術師さながらの重く眠たげな両眼に囚われて、マリインスキー劇場の職も失って、彼に抱かれる以外の選択肢がなくなってしまったのではないだろうか。
 もちろんバレエ・リュスの舞台に立ちたい思いはあっただろう。けれど、その代償として年上の男から愛を請われ、拒めなかったとしても、それを自己責任といいきれるだろうか。

 彼は首すじにキスされても逃げられなかったのかもしれない。わたしとは違って。
 だとしたら、わたしがニジンスキーを救いだすしかない。
 ニジンスキーに救われたわたしが、今度は彼をディアギレフのもとから救いだすのだ。

 ロンドンのホテルの壁にかけられた「プラハの奇跡あふれる十字架」の前にひざまずき、ロモラは必死で祈りを捧げた。

 神様、どうかニジンスキーを幸福にしてあげてください。
 どうか、彼をディアギレフとの生活から救ってあげてください。
 そのためならわたしは、どんな犠牲をはらっても構いません……!