※ネタバレを含みます。
この映画にはすでに数多くの批判が寄せられている。その代表といえるのが松岡宗嗣氏のこの記事だろう。
松岡氏の意見はきわめてまっとうだ。いうまでもなくちゃんとしている。わたしは専門家ではなく、ここまでクリアに問題点を整理する能力はないが、観ているときにかなり近い感覚は持ったし、いま現在も大筋としては賛同している。
……のだが、この意見は、「最新の議論を踏まえてアップデートされた理想のトランスジェンダー女性像」にこだわりすぎていると感じた。たしかにこの作品は「20年前だったら新しかったかもしれない」と思わせる描写にあふれており、もはや2020年においては真に受けないでほしいと思う要素が多い。松岡氏が指摘している「母性」の問題もそのひとつだ。トランス女性にも母性はあるのだ、という宣言は、20年前だったら新鮮な感動を呼んだかもしれないが、いまとなってはだいぶ古めかしい。男性である監督が、女性の母性を無邪気に信仰しているように見えるのも気にかかる。
しかし古い=ダメ という主張にはあえてストップをかけたい。たいへん粗雑な意見を言ってしまうが、母性だとかいうしょうもない迷信にとらわれたトランスジェンダー女性を主人公にした作品がこの世に存在してもいいんじゃないだろうか、とわたしは思う(実際たぶんある程度はいるし)。むしろ凪沙という人物の生育環境や現在の暮らしぶりを冷静に観察すると、彼女がセクシャリティやジェンダーに関する一連の議論をちゃんと身につけているほうが不自然なのではないか、とさえ思えてくる。彼女が新宿のアパートの小さな部屋で読んでいるのは『らんま1/2』であり、ジュディス・バトラーのジェンダー論とかそういったものではない。いってしまえばそれが凪沙の性に対する教養と想像力の限界点である。
もちろん一連の学術的な議論を熟知している(あるいはそこまでいかなくてもLGBTQのそれぞれの定義くらいはスラスラと説明できる)当事者はたくさんいる。そういう人たちは、凪沙がつまづいてしまった都会のきれいなオフィスでの面接もクリアできるだろうし、代々木公園でレインボーフラッグを高く掲げて笑うこともできるだろう(逆にそういうキラキラムードを嘲笑することもできるだろう)。
だが、そういう人たちが当事者の全てではない。正直にいうと、わたしも当作を観た直後には「いまどき風俗業界で働くトランスジェンダーが主人公か」とか「100年経っても解消しそうにないクソ田舎のくだらない差別なんかどうでもいいわい」という感想を抱いてしまったのだが、何日か考えた末に、それは差別以外の何ものでもないと思い直した。2005年公開のアカデミー賞・ヴェネツィア国際映画祭受賞映画『ブロークバック・マウンテン』は、1960年代のアメリカのど田舎のカウボーイの男ふたりが、都会でのインテリたちの同性愛コミュニティや人権運動なんか何ひとつ知らないまま性的に惹かれ合ってしまったところが大きなポイントなのだ。この映画も、いわゆるLGBTQ映画の文脈で分類するなら「当事者=非インテリ」寄りの作品としてみるべきなのではないだろうか。(監督がどこまで意識的に当作をそちら側に位置づけているのかという問題は残るわけで、わりと心配なんだけど、なるべく万事を好意的に考えるというのがこの記事の方針です)
さて、まだあまり語られていなさそうなポイントとして、『ミッドナイトスワン』はシスターフッド(女性たちの解放へ向けた連帯)の物語として見ることもできそうだ。この映画は、凪沙と一果というふたりのメインキャストの女性もさることながら、脇でポジティブな役目を果たしているのもほぼ女性である。凪沙の同僚たちも、バレエ教師の実花も、一果の友人のりんも、あるいは面接でとんちんかんな上司を諌めて凪沙のアクセサリーを褒めてくれた社員も。
凪沙とりんはともに一果に惹かれるが、それは母性や同性愛である以上に、一果が彼女たちに見せてくれた芸術世界への敬服である。女がある強烈な才能をもつ女に出会ったときに、なんとしてでも彼女だけはこのクソみたいな世界から逃がしてやりたい、犠牲をはらっても彼女に尽くしたいと思い、行動する。それがこの映画の忘れてはならないメインストーリーである。
凪沙のライバルである実の母親・早織も、最終的には一果の才能のために心を決める。凪沙と早織は似たもの同士だ。親戚であり、つまりは生育環境も似たりよったりであり、就いている職業も遠からずで、人生に対して挫折感と鬱屈を抱えている。冒頭、へべれけになって帰ってきた早織は、一果を呼びよせ、「ちゃんとしたいんじゃけど……どうにもならんのよ……」と我が身を嘆く。これはきわめて重要なシーンだ。彼女のジレンマは、凪沙の人生にも直結する。凪沙もまた自分自身に対して「ちゃんとしたいけどできない」というもどかしさを抱えている女だ。暮らしは楽ではないのに改善する気力もなく、性適合手術もずるずると先延ばしにしている。(もちろん「最新の議論」においては「手術をしなければちゃんとした女性ではない」という考えは断固として否定すべきなのだが、彼女自身はそういう価値観を強く持っている)。
だからこそ、一果の母になりたいと願ったとき、凪沙は凪沙なりの価値観にもとづいて「ちゃんとする」ために手術に踏み切る。一果を凪沙に渡してなるものかと叫びわめいていた早織も、彼女なりの(たぶんヤンキー的な感覚による)価値観のもと、中学校を卒業したら好きにして構わない、と一果に許可を与える。彼女は派手な水色のスーツを精一杯お行儀よく着て、中学校の卒業式に出向く。凪沙も早織も、決して「ちゃんとした」保護者ではない。彼女たちの努力は「ちゃんとした」保護者からみればどこかズレている。けれど彼女たちは彼女たちなりに一果の背中を押し、その結果、一果は芸術の世界へと羽ばたいていくのだ。
凪沙たち、あるいはこの映画そのものに対する「もっとちゃんとしていてほしかった」という願いはあってしかるべきだ。しかしそれはこの映画の作り手を叱り飛ばしさえすればかなう願いなのだろうか。完成して世に送り出されたフィクションそれ自体をアップデートさせることはできない。「どうにもならんのよ……」というあの悲痛な声に時間をかけて応えるべきは、まだこれからどうなるかわからない人生を送る観客の側だろう。