Writer/文筆家

TOKYO2020とBOLERO2020 – 東京五輪開会式の「ボレロ」をめぐって

 

 去る7月23日に行われた東京オリンピック開会式は、56.4%の高視聴率を記録しつつも、その内容に対しては大きな批判の声が上がった。とりわけよく聞かれたのは、繰り広げられる個々のパフォーマンスの整合性のなさ、個別には選手入場の際のゲーム音楽の使用に関する批判である。

 ゲーム音楽に関しては主に3つの批判が聞かれた。ひとつはゲームの文脈を無視して音楽の「おいしい部分」だけを行進曲として用いることへの批判、ひとつは差別的な言動が物議を醸している作曲者の作品を用いたことへの批判、もうひとつはゲーム音楽という「三流の音楽」(ないし「内輪受けの音楽」)を国際的なセレモニーの場に採用したことへの批判である。

 わたしはゲーム音楽に明るくないが、このうち3つ目の批判には賛同しない。ゲーム音楽を三流の音楽とジャッジする気はないし、五輪で起こった問題は音楽のジャンルや質とは関係がないからだ。ゲーム音楽だけではなく、聖火リレーのセクションで流されたクラシック音楽──モーリス・ラヴェルの「ボレロ」の使用についても、やはり問題があったとわたしは考えている。ひとことでいえば、その使用方法はあまり安直だった。

わたしたちはテレビからクラシック音楽をインストールした

 

 わたしは「クラシック音楽をBGMに使うなぞけしからん」という考えの持ち主ではない。そもそも、クラシック音楽を腕組みして真剣に鑑賞するカルチャーが生まれたのはいうほど昔ではない。劇場やホールは長らく「出し物が用意されているタイプの社交の場」だったし、数百年さかのぼれば王侯貴族の食卓のBGMだった。祝典を盛り上げる目的のもとで書かれた作品も古今東西たくさんある。
(余談であるが、どちらかというといま危惧しているのは、せっかく最近ライトな雰囲気になってきたクラシックの演奏会が、コロナの影響によって再び「氷のように沈黙して音楽を聴く場」になってしまったことだ)

 現代において、コンサートホールやオーディオルームがクラシック音楽聴取の原点だった人は相当少ないだろう。
 わたしたちのクラシック音楽との出会いは大概テレビである。

 80年代前半東京生まれのわたしがラヴェルの「ボレロ」と出会ったのも、やっぱりテレビだった。おそらくこの世代の多くの人がそうだろうが、この曲の印象的なラストを最初に知ったのは、テレビ東京系列の人気番組「TVチャンピオン」(1992-2006年放送)だった。 その断末魔のごときフレーズは、熱いチャンピオン・バトルの印象とともに強く脳に刻まれた。

 より能動的な「ボレロ」との出会いは、有吉京子の大河バレエ漫画『SWAN』で、ある登場人物がモーリス・ベジャール版の「ボレロ」を踊るシーンを読んだときだった。「腰でリズムを刻む」というその音楽がどんなものなのか知りたくなって、市の図書館でボレロが収録されたCDを借りた。わたしはそのときはじめて、ボレロが「TVチャンピオン」のあの曲であると知ってビックリしたのだった。

 これは「ボレロ」に限った現象ではない。10代半ばまでクラシック音楽に関心がなかったわたしにとって、借りてきたCDは、テレビで覚えたフレーズとの答え合わせの道具だった。太田胃散のCMの曲がショパンの前奏曲第7番であることも、スタッフサービスのCMの曲がチャイコフスキーの弦楽セレナードの第1楽章であることも、わたしはすべて後から知った。

 大人(もしくは社会人、 もしくは ビジネスマン)向けの「クラシックを学ぶ教養本」の多くは、こうしたテレビを介した記憶との答え合わせを主眼に作られている。実際、日本生まれ日本育ちで標準的にテレビを観てきた人であれば、100以上のクラシック音楽のフレーズがすでに脳にインストールされているだろう。(そんなに知っているわけがないと思うかもしれないが、本当である)

 日本のクラシック音楽産業は、こうした「無意識的にメディアを介してインストールした」下支えの知識にだいぶ助けられている。「テレビで聴いたことがある」は、関心を持ってもらうため、お金を落としてもらうための最良のとっかかりなのだ。
 

が、国際的なセレモニーの場でその感性でいいのか問題

 

 が、いくらなんでも国際的なセレモニーの場でそのテレビ的感性のまんまでいいのか問題、である。

 確かにボレロは使い勝手がメチャクチャいい。聖火リレーが受け渡されるごとにだんだんと盛り上がって、最終ランナーの大坂なおみ氏でクライマックスに至る。良く言えば、用途としての妥当性は充分にある。悪く言えば、日本生まれ日本育ちで標準的にテレビを観てきた人であれば、誰でもすぐに考えつきそうなアイデアだ。

 ありきたりが悪いわけではない。メンデルスゾーンの「結婚行進曲」もワーグナーの「婚礼の合唱」も、ストーリーの背景を踏まえれば必ずしも喜ばしい曲とはいえないのだが、そうはいっても世界的な定番である。披露宴でこれを流して実際にケチをつける人はいないだろう。

 それに、ボレロには「ほんとうは怖い」的な裏エピソードも特にない。酒場でひとりの女性ダンサーが踊りだす。やがて周りもノッてきて、最後は歓声のなか、テーブルの上で派手に踊りまくる。ストーリーとしてはそれ以上でも以下でもない。
 そもそも音楽用語としての“ボレロ” とは、18世紀末のスペインを起源とした舞曲のことである(歴史としては意外と浅い)。ラヴェルはフランスとスペインにまたがるバスク地方で生まれ育った。母親はバスク人である。そのバックグラウンドが「ボレロ」作曲に影響をおよぼしたのは確かだろう。しかし完成した作品からは必ずしも濃厚な民族色は感じられない。1928年の初演からまもなく世界各地でヒットしたのは、土着的なムードを狙いすぎず、ワールドスタンダードを目指して作曲したからだろう。つまり、気軽に使ったとしても人種・民族をめぐる摩擦が起きるタイプの曲ではない。

 ただ、じゃあボレロが「安心安全、人畜無害、無色透明なアゲ曲」なのかというとそうではない。
 ラヴェルは民族色の代わりに何を追い求めたか? 反復、リズム、そのコンビネーションによって起こる機械のように冷徹な狂気である。

タッ タタタ タッ タタタ タッタタタ タタタ タタタ」というひそやかなスネアドラムのリズムの上で、フルートが、クラリネットが、ファゴットなどがメロディを奏で、繰り返すにつれだんだんと多くの楽器が加わってクレッシェンドし、約15分をかけて頂点に達する。初演の際「この曲は狂っている!」と非難の声をあげた女性ダンサーに対して、ラヴェルが「彼女はこの曲をわかっている」と同調した──── というエピソードは作り話だといわれているが、およそ人間味のある曲ではないのは確かだろう。 独特なリズムの反復と音の増幅がもたらす正気ならざる地平。曲を使うにあたってその特性に敬意を払うならば、「タッ タタタ タッ タタタ……」の表象(具体的には、なんらかの身体的なリズム表現)が不可欠なのではないだろうか。

 繰り返すが、テレビ番組やCMにおける10秒ちょいの音源使用に対してそれを求めるわけではない。あくまでもTPOの問題だ。世界人口の何%かが視聴する国際的なセレモニーに求められるのは、個々のコンテンツの質やインパクトだけではない。もっと重要なのは、それらを取り扱う際の手付きの繊細さやコンテクストの奥行きである。
 残念ながらこの開会式でのボレロに関しては、「どーんと盛り上がって、高級感のある曲」として、広告のコンペのようなノリで選定された曲、としか思えなかった。それは個別に見れば「オタクならケチをつけるかもしれないちょっとした杜撰さ」でしかない。まあ、しょせんはクラシック1曲の話だ。しかしこの式典においては、音楽、ダンス、歌舞伎、寸劇、あらゆるコンテンツにおいて同じような杜撰さが垣間見えて、それらが式全体の水準を著しく下げているように見えた。世界に向けてこのような「テレビっぽい感性の集合体」を見せれば、底の浅い見世物だと思われても仕方がない。
「コンテクストの棄却や換骨奪胎こそが日本文化なのだ」という開き直りがあるならまだしも(実際それは一理ないでもない)、そこまで考えてやっているならば、それを国際的にプレゼンするためのより手の込んだ表現が必要である。しかしこの式典においては、そうした仕掛けも見られなかった。

 

 開会式をめぐっては、辞任・解任の一件をはじめとしてさまざまな暴露やゴシップが聞こえてくるが、何が本当なのかは結局わからない。そもそも「ボレロ」に関しては小山田圭吾氏のオリジナル曲からの差し替えだったという憶測の声もある(まあ、それなら仕方ないかなとも思う)。あと、「ボレロ」はラーメンズの定番ネタだから、やみくもに使ったわけじゃなくてちゃんと文脈はある、という意見も見た。 うーむ……。もしそうだとするなら「広告のコンペ」という言葉は適切じゃなかったけど、ネタに関しては正直なところ「知らんがな」である。 「知ってる人だけがニヤッとできる」は、「知らない人も(別の文脈で)ちゃんとニヤッとしてる」が前提じゃないといけない。
(あと、まったく別の話だけど、もし式に小林賢太郎氏が手がけた部分が残っていたのだとしたら、クレジットから名前を外してはいけないと思う。行った仕事に関して守られるべき権利はある)

 いずれにしても音楽については、製作陣のなかに適切なアドバイザーがいなかったのだろう。なぜいなかったのか。そういう素質があるプロフェッショナルが日本に誰もいなかったわけではない。今回の五輪がそうした優れたブレーンからの信用を得られず、適切な人材が集まらなかったことに根本的な原因があるのではないか。わたしはそう推測している。

 

 さて、なぜこんな中途半端なタイミングでこれを書いたかというと、去る7月25日に、舞踊集団“Noism(ノイズム) ” の映像舞踊作品「BOLERO 2020」を観たからだ。いわゆるステイホーム・アート(とわたしが勝手に呼んでいるコロナ禍における芸術表現)のひとつなのだが、「ボレロ」のリズムやメロディーを緻密にダンサーひとりひとりの肉体にあてがっていて、実にお見事。「ボレロ」を作品の本質に迫りながら2020年流にするってこういうことだぜ……!と思って、五輪のボレロ使用に対するモヤモヤの理由に思い至って、そしてこの文章を書き始めた。 「BOLERO 2020」 というタイトルは、たぶん「TOKYO 2020」への反発を込めたもじりなんだろうな。

 フルバージョンも200円で視聴できるそうなので、ぜひ。ちなみにNoismは新潟市の公共劇場「りゅーとぴあ」の専属舞踊団で、市からの年間の補助金は5000万円だそうです。