Writer/文筆家

【連載】『わたしが推した神』ACT2-8 洗脳騒動、勃発。

 

 ニジンスキーの名声がアメリカじゅうにとどろく一方、ディアギレフは評判を落としていった。
 観客はおろかメトロポリタン歌劇場までも、ディアギレフを邪険にしはじめた。ビジネスライクなアメリカの業界人にとって、ニジンスキーの報酬をめぐるゴタゴタはおよそ前時代的にしか見えなかった。興業に花形スターのニジンスキーは必要不可欠だ。だがプロデューサーはいなくたって困らない。そんな態度を露骨に出してきた。
 ディアギレフにとっては癪に障る話だ。
 しかし、それならそれで悪くない、という気にもなってきた。

 もとよりアメリカでの公演は戦争の窮地しのぎに過ぎない。それにヨーロッパを長く離れていると、作曲家や美術家と次作の打ち合わせができないのが難だった。ここは逆転の発想だ。ニジンスキーをバレエ・リュスの臨時の団長に仕立て上げて、この北米ツアーを任せてしまおう。
 ディアギレフはニジンスキーがリーダーとしての資質に欠けていることをよく知っていた。ロンドンのパレス・シアターでも、過労とストレスで倒れてしまったと聞いている。何倍もの団員を引き連れて、複数都市をめぐるツアーの苦労はその比ではないだろう。だがもう、知るか。夫妻ともども、少しは痛い目に遭うがいい。

 
 邪魔者がいなくなる!……と、ロモラが喜んだのはつかの間だった。
 ディアギレフがヨーロッパに帰ったとたん、バレエ団は次から次へとトラブルに見舞われだした。

 最初の事件は、新作『ティル・オイレンシュピーゲル』のリハーサルの現場で起きた。ニジンスキーがリハーサル室にやってくると、なんとダンサーがひとりしかいない。いわく、他のダンサーはみな「ストライキ」をしたとのことだった。
 ストライキ。ニジンスキーにとって耳慣れない言葉だったが、それはアメリカの労働者に与えられている拒否権だという。ロシア人のダンサーにとって、『ティル・オイレンシュピーゲル』の作曲者リヒャルト・シュトラウスは敵国人だ。敵国人の音楽では踊りたくない、というのがストライキの理由だった。
 契約上、ダンサーはさまざまな音楽で踊る義務があるため、ストライキは有効ではない。劇場側がそのように説明してくれたおかげで、ダンサーたちはしぶしぶ戻ってきた。だがこの騒ぎのせいで、リハーサルの2日間が無駄になってしまった。
 ストライキを起こしたのはロシア人ダンサーばかりではない。長年バレエ・リュスの初演を指揮してきた指揮者のピエール・モントゥーさえも、ニジンスキーに逆らった。
「自分はフランス人だから、リヒャルト・シュトラウスを指揮したくありません」
「でも、『ル・カルナヴァル』を作曲したシューマンだってドイツ人でしょうが」
 説得してもこう返すばかりだ。
「彼はもう死んでいるが、シュトラウスは生きていますからねえ」

 それでも、ニジンスキーの新作への意気込みが伝わったのか、なんとか味方もできはじめた。特に力になってくれたのは、コストロフスキーとズヴェーレフという2人の新人ダンサーたちだった。コストロフスキーはとても落ち着いた雰囲気の、澄んだ目をした男だった。彼は他のダンサーたちの前で、胸に両手を当ててこんな説教をはじめた。
「ニジンスキーは私たちと、子どもたちのために働いてくれています。彼はまったく利己的な人間ではありません。ですから攻撃なんてもっての他です。あなたがたは自分自身を傷つけているにすぎません。彼は私たちなしでも存在できますが、私たちは彼なしでは成功できないのですから」
 その言葉に気圧されて、ダンサーたちは押し黙った。いささか宣教師じみているのが気になるが、ひとまずは助かる。ロモラは心のなかで コストロフスキーに手を合わせた。ありがたや、ありがたや。

 ダンサーたちがストライキを取り下げ、稽古に励んでくれたおかげで、『ティル・オイレンシュピーゲル』の初演は大成功をおさめた。
 ところが地方都市へのツアーがはじまると、またも事件が勃発した。
 公演の配役には、代役(アンダー)が用意されていた。トップスターのニジンスキーやカルサヴィナは定期的に休むことが決まっており、2番手のボルムやニジンスカと交代の機会があったが、ほかのソリストは病気にならない限りは原則として出ずっぱりだ。だから、アンダーは指をくわえて見ているだけだ。これではいつまでもアンダーはアンダーのままで、若い世代がいい役をもらえない。ニジンスキーはダンサーをシャッフルし、誰にでも定期的に出演のチャンスを与えると決めた。
 しかし、これまで役をもらえていたダンサーたちにとっては面白くない。これが引き金となって、また「ストライキ」騒ぎが発生してしまった。

 ロモラの胸に不安がよぎった。
 ニジンスキーの意見はまっとうだった。でも、人事にかかわる改革はもっと慎重にやるべきだ。ツアー中の唐突な変更では、ダンサーたちが混乱し、不安を感じるのも当然だろう。
 そもそも、この件は置いておくにしても、ニジンスキーの様子が妙だった。ツアーが進むにつれてどんどん無口になっていく。契約解除の電報を受け取ったときよりも、ロンドン公演でノイローゼになったときよりも、ブダペストに軟禁されていたときよりも、顔色が悪く、目つきもどんよりと暗い。ロモラが話しかけても生返事だ。おまけに、肉をまったく食べなくなってしまった。お腹の具合でも悪いのかと心配したが、そういうわけでもないらしい。


 気を揉むロモラに、親切なダンサーたちがこっそりと教えてくれた。
「たぶん、あの2人組のせいだと思います」
  コストロフスキーとズヴェーレフのことだった。
「彼らはニジンスキーの側にやたらと居たがるんです。いつも追っかけ回してますよ」

 たしかにそうだ。気がつけば、彼らはまるで犬のようにニジンスキーのあとをついて回っている。レッスン室や劇場はもちろん、長距離列車のコンパートメントまで押しかけてきて、キリストだのトルストイだのの話をオウムのように繰り返す。おまけに、ダンサーを平等に扱うべしとか、肉をやめて菜食をしろとか、合間合間に巧みに説教を挟んでくる。
 ロモラはなんとか彼らを追い払おうとした。
「仕事以外の時間は夫婦でゆっくりしたいの。遠慮してくださる?」
 そう言ってもまるで効果がない。目をぎらつかせてふたりの間に押し入ってくる。逆にロモラをコンパートメントから追い出しにかかる始末だ。こいつら犬どころじゃない、ヒルだ。

 おまえだって列車や船の中を追いかけ回し、その果てにニジンスキーをモノにしたんじゃないか。
 そう言われてしまえば、否定できない。でも、この人たちの気持ち悪さはちょっと尋常じゃない。気がつけばニジンスキーは本当に肉も卵も食べなくなっている。医者からは栄養価の高い食べ物で筋肉を育てるようにと指導を受けているのに。

「ダンサーをやめて、ロシアで農業生活を送りたい」
 とうとうニジンスキーはそんなことを言い出した。
 思わず彼の顔をのぞき込む。ロモラを見つめ返してはいるが、瞳にはなにも映っていない。キリスト……トルストイ……ロシア……自然……菜食…………2人組から吹き込まれた思想だけがぐるぐると渦を描いている。
 泣きそうになった。
 彼らが説いているのが、「トルストイ運動」なるものだと知るのはずっと先のことだ。 トルストイ運動とは、1828年生まれのロシアの文豪レフ・トルストイの思想に準じて19世紀後半に興った運動だ。信奉者たちは、ロシア正教会を拒み、国家や戦争に対しても否定的な態度を取り、ロシア各地に独自の農業コミューンを形成して、原始キリスト教の一派に準じる菜食生活を送っていた。もともと改革派であり反戦主義者であるニジンスキーにとっては、共鳴しやすい思想だった。アナーキズムの一種ともいえる。
 しかし、ロシア人でもなく、トルストイ・ファンでもなく、ダンサーとしてのニジンスキーを全身全霊で推すロモラにとっては、ダンサーをやめさせようとする思想はただのカルトでしかない。絶望感がこみあげる。わたしの推しがヤバい思想に洗脳されてしまった……!

 移動に移動を重ねるアメリカ・ツアーは過酷の極みだった。団長の重圧も抱えている。きっと、その心の隙につけ込まれたのだ。
 休みたいのはわかる。 愛する故国に帰りたいのもわかる。芸術の創造のためには、ドサ回りのツアーから離れて、静寂のなかで過ごす時間が必要だというのも。この戦争が終わったら、ぜんぶ叶えてあげたい。
 でも、いくらなんでも、ダンサーをやめたいというのが彼の本心だとは思えなかった。


 洗脳はそれだけでは終わらなかった。
「セックスは子どもを生むためのみに行うべきだ」
 彼らはニジンスキーにそう説きだした。
 ニジンスキーは本気で悩みだしていた。完全に禁欲するか、避妊なしのセックスをしまくって毎年子どもを産むか。その2択しかない、と言い出す。ロモラはついに業を煮やした。他人の性生活の話にまで立ち入る男たちのおぞましさもさることながら、大まじめに悩んでいるニジンスキーにも猛烈に腹が立った。
 以前は、出産にともなう女性側の身体の負担や、子どもを育てる責任についてきちんと考えてくれていたのに。あのときのニジンスキーはどこへ行ってしまったの? それに、そもそも、セックスはふたりでするものなんですけど。なんで勝手に、片方の側が今後の方針を決められると思うの?

 巡業先のシカゴに到着したとき、ロモラは賭けに出た。
 邪魔なパートナーとの生活に亀裂を入れて引き離す。性生活への介入は、そうした彼らの洗脳マニュアルのひとつなのだろう。しかし、ニジンスキーは思想のために家族を捨てることまでは考えていないように見える。いまなら、切り札を出す効果もあるだろうと踏んだ。

「わたし、もうツアーに同行するのはやめる。キュラを預けてあるニューヨークに先に戻るから」
 案の定、ニジンスキーは呆然としている。効いてる、効いてる。久々に女優モードを発動して、ロモラは冷然と言い放った。
「あなたがトルストイ的な生活を送りたいなら、わたしはひとりでヨーロッパに帰る。キュラはあなたが育てたいなら、そうして」
 なぜ妻が豹変したのか、ニジンスキーもさすがに察したらしい。肩を落として、すっかりしょげかえっている。ああ、なんてかわいそう。でも、ここは心を鬼にしなくては。カルト2人組から推しを取り返した確信を抱きつつ、ロモラはニューヨーク行きの列車にひとりで乗り込んだ。