Writer/文筆家

【連載】『わたしが推した神』ACT2-3 絶対的エースの受難

 

 1913年、9月初旬。

 その朝、ミシア・セールは、モスリンの軽やかなドレスをまとい、日傘を手にぶらさげて、大親友の部屋へ入っていった。ヴェネツィアの夏にふさわしいバカンス・ルックだ。

 彼女の大親友──セルゲイ・ディアギレフは、まだパジャマ姿だったが、にこやかに彼女を出迎えた。
 ご機嫌なのは、新しい楽譜が手に入ったからだった。バレエ・リュスが南米ツアーに出かけている間、彼は決して惰眠を貪っていたわけではない。すでに新作『ヨゼフ伝説』の打ち合わせに入っていた。
 台本は著名な詩人フーゴー・フォン・ホフマンスタール。音楽家はこれまた著名な作曲家リヒャルト・シュトラウス。舞台は16世紀のヴェネツィア。豪商ポティパルの妻は、奴隷のヨゼフに惹かれて彼を誘惑するが、まるでなびかないことに腹を立て、彼を火あぶりの刑にする。しかしそこに金の翼の天使が現れてヨゼフの鎖を解き、彼は天へとのぼっていく。それを見た彼女は自殺してしまう。……

 ディアギレフはこの作品の主演と振付をニジンスキーに任せるつもりでいた。貞淑な人妻を狂わせるほど魅惑的な奴隷。いったいわが恋人・ニジンスキー以外の誰がこの役を創造できるだろうか?

 彼は『春の祭典』の大炎上からも、団員たちとのギクシャクからもすっかり立ち直っているように見えた。ミシアが奏でるピアノに合わせて、トルコ製のスリッパで飛び跳ねたあげく、ミシアの日傘を勝手に開いて振り回す。
 ディアギレフのはしゃぎっぷりに笑っていたミシアだったが、途中ではっとしてピアノを止めた。「日傘を部屋で開くのは縁起が悪い」──そんな迷信を思い出したのだ。
「セリョージャ。ねえ、それはやめてちょうだい」

 ノックの音が響いたのは、そう言いかけた矢先だった。

 ホテルマンが持ってきたのは、一通の電報だった。
 ミシアは、文面を一瞥した親友の顔がにわかに土気色になり、声にならない声で何かを叫ぶのを見た。

 すぐさま、ヴェネツィアにいる仲間たちが駆けつけた。ミシアの内縁の夫セールや、美術のレオン・バクスト……みな、バレエ・リュスの中枢の人間だ。電報を回し読みして、絶句した。ニジンスキーが結婚だって? 青天の霹靂だ。いったい何が起きたんだ? 南米ツアーに出発したとき、ニジンスキーは普段どおりの様子だったじゃないか。
 ────しかも、花嫁のロモラっていったい誰?

 ああでもないこうでもない。議論が始まったが、どれもこれも憶測だらけだ。時間は無為に過ぎていく。
「重要なのは」
 ふいに、バクストがこう言い出した。
「ニジンスキーが出発前にパンツを買ったのかどうかだ」

 パンツ?
 みないぶかしげに顔を見合わせた。バクストひとりが大真面目だ。
「もし事前にパンツを買ったのだとしたら、この結婚は計画的だったという証明になる」
「そういえば、彼は旅の前にワイシャツを注文していた気がするぞ」
 誰かがそう言いだす。合点顔でうなずくバクスト。
「……しかしパンツとなるとどうか……」

 その議論をさえぎるように、ディアギレフは泣きわめいた。
「どいつもこいつも役たたずめ! 何がパンツだ!」

 それから数カ月後。……
 バレエ・リュス幹部のセルゲイ・グリゴリエフは、南米ツアーから故郷のサンクト・ペテルブルクに帰国してまもなく、ディアギレフから呼び出しを受けた。彼もちょうどロシアに帰ってきていたのだ。肌はまだ船旅の日焼け痕が痛いくらいなのに、街はすでに深い雪に覆われていた。

 グリゴリエフを出迎えたディアギレフは、さっそく1通の電報を手渡した。グリゴリエフよりも早くヨーロッパに戻ったニジンスキーから、つい先ごろ届いたものだという。──バレエ・リュスの新シーズンの稽古はいつからか。『ヨゼフ伝説』の振付はいつから始めればいいのか。しばらくは団員たちをこの作品の振り写しに集中させてほしい。……ごく事務的な質問だ。
 グリゴリエフの手から電報を取り上げると、ディアギレフは皮肉っぽい笑みを浮かべた。眼窩にはめこまれた片眼鏡が、窓辺の雪を映して白く濁っている。
「返信の文面は私が考えよう。きみは署名して、彼に送ってくれればいい」
 渡された文案を見て、グリゴリエフは愕然とした。

ディアギレフ氏へのあなたの電報に、私は以下の通り返答いたします。ディアギレフ氏は、あなたがリオ・デ・ジャネイロでの公演に参加せず、『ル・カルナヴァル』への出演を拒否したことについて、契約破棄を行ったと見なしています。つきましては、彼は今後、あなたにオファーをいたしません。
 セルゲイ・グリゴリエフ、バレエ団舞台監督

 事実上の解雇通知だった。
 とがめの言葉が喉からせりあがる。ばかな。ニジンスキーをクビにする? それがどういうことだかわかってるんですか? ニジンスキーを絶対的センターに祭り上げたのは他ならぬあなたですよ? 「バレエ・リュスとはニジンスキーのことだ」と客はみんな思っているし、われわれだってそう思ってきたではありませんか。
 それに、もっとも喝采を浴びたのはニジンスキーだったが、もっともアンチからバッシングを受けたのも彼だったんですよ。
 功労者たる彼を、いくら出演を一度すっぽかしたからといって────いや、女と結婚したからといって切り捨てるんですか?

 グリゴリエフは有能な幹部だった。だが、ボスに真っ向から反対する度胸はなかった。
 断腸の思いでその電報を送ったあとも、ディアギレフはさらにグリゴリエフに圧力をかけた。

「『ヨゼフ伝説』の振付は、ミハイル・フォーキンに変更したいと考えている。主役のダンサーはこれから探す。ひとまず、きみからフォーキンにオファーをしてほしい」

 またも愕然とした。ニジンスキーの扱いをめぐって大揉めにもめて、喧嘩別れした振付師を呼び戻すだって? しかも矢面に立ってフォーキンを追い出し、すでに恨みを買われている自分に、今度は呼び戻すための説得をしろと?
 さすがのグリゴリエフも、ただ呆然と立ちつくすばかりだった。使えんやつだといわんばかりに肩をすくめると、ディアギレフは自らホテルの受話器を取った。

 5時間ものあいだ、グリゴリエフは部屋に残ったまま、ぼんやりとディアギレフの猫なで声を聞いていた。だいぶ難航しているように聞こえたが、受話器を置いた瞬間に彼は叫んだ。
「やれやれ、これで片が付いた!」
 説得できたのか。さすがというべきか、恥知らずというべきか。

 しかし悪夢はそれだけでは終わらなかった。帰ろうとするグリゴリエフを呼び止め、ディアギレフはささやいた。
「フォーキンは、引き受けるにあたって、きみと、ニジンスキーの妹と、ほか何人かの団員の解雇を要求している」
 グリゴリエフは震え上がった。なるほど、そういうシナリオだったか。自分もニジンスキーとともに断頭台にのぼらされるのだ。南米ツアーの最中、彼の暴走を止められなかった責任を取るために。

 だが、ディアギレフはこう続けた。
「その要求は拒否したよ」彼はうっすらと微笑んでいた。「だって、きみとフォーキンは、和解した方がいいに決まっているからね」

 グリゴリエフは生唾を飲み込んだ。それは物腰柔らかな脅迫だった。

 ニジンスキー、解雇。
 そのニュースは、ニジンスキーの結婚以上に関係者やファンに衝撃を与えた。

「ディアギレフはやる気をなくして、バレエ・リュスをどこかに売っちまうらしい」
 そんな噂がはびこったのも無理はなかった。

 雑誌編集長のブルノはこう言った。「つまりは〝離婚〟というわけだ」
 作曲家のストラヴィンスキーはこう言った。「ディアギレフはもう終わりだ」
 詩人のコクトーはもっと辛辣だった。「こんな話をフェレンツェの友人から聞いたぞ。街で美少年をつかまえて、じゅうぶんに太らせてから食ってしまう鬼。そいつをつかまえたら、ディアギレフだったそうだ」

 しかし当の「鬼」は、決してバレエ団へのモチベーションを失ったわけでも、自暴自棄になったわけでもなかった。
 泣いたりわめいたりのパニックを経て冷静になってみると、納得する面もあった。ニジンスキーの心が自分から離れつつあるのは、南米ツアーの前から察していた。年の離れた男との肉体関係に嫌悪を感じだしていることも。ディアギレフ自身とは異なり──女性も愛せる性質であることも。『ヨゼフ伝説』の振付と主演をあてがったのは牽制と忠告のつもりだった。女性から熱狂的に愛され、その結果として火あぶりに遭う。おまえはそれほどに魅力的なのだ、注意せよ、と。

 理解しかねたのは、その相手だった。
 ロモラ・ド・プルスキー。なぜあの娘なのだろう。
 たとえ彼女が、「ニジンスキー推し」を徹底して隠し通し、裏でポティパルの妻のごとくニジンスキーを誘惑していたとしても。彼を振り向かせるような魅力があるとはどうしても思えなかった。
 これが他の団員──たとえばマリー・ランベールならわかる。バレエの専門家ではないものの、ダンスのスキルは一流で、ニジンスキーも頼りにしていた振付補佐役だ。彼女がニジンスキーに恋しているのは『春の祭典』の振り入れの頃から噂になっていた。尊敬する女性からのアプローチに彼が応える気になったとしても不思議ではない。
 しかしロモラはどうか。まったくのダンス素人だ。彼だってそれを知っているはずだ。ウィーンでのロモラとの面会のあと、あの令嬢をツアーに同行させるつもりだと言うと、彼は反対さえしていたのだ。踊れない者を楽屋や舞台裏に入れるのはよくない、と。

 
 片眼鏡をデスクの上に取り落し、ディアギレフは震撼した。
 ──そういうことか。
 自分とニジンスキーとの決定的な違いに、彼はようやく思い至った。

 ヴァーツラフ・ニジンスキー。
 彼は、性愛と仕事を分けられる人間なのだ。

 だが、わたしは性愛と仕事を分けられない。
 彼はわたしを拒み、女を愛しながら、バレエ・リュスのセンターに立てると思っている。
 しかしわたしは、彼が愛してくれないなら、彼をセンターから降ろすしかない。彼を火あぶりにして、わたしを愛してくれる別のセンターを探すしかない。

 愛を与えてくれない神を、どうしてこの世の誰よりも推せるだろう?

 
 グリゴリエフからの電報を握りしめて、ロモラは震撼した。
 ──そういうことか。
 ニジンスキーが自分を選んだ理由に、彼女はようやく思い至った。


 ヴァーツラフ・ニジンスキー。
 彼にとって、結婚はディアギレフからの愛を拒絶するための最終手段だったのだ。

 彼はその目的のために、たまたま近くにいて、しきりと熱い視線を送ってくる女性ファンを強引に巻き込んだのだ。
 もっともバレエから縁遠い、もっとも存在価値の低い、もっとも無力な、もっとも金を持っている、もっとも軽はずみに求婚に応えてくれそうな、もっともディアギレフを失望させそうな女を。

 何を動揺しているのだろう。これは望んでいた展開だったはずだ。
「プラハの奇跡あふれる十字架」の前で、毎日毎夜、お祈りしたとおりじゃないか。

 神様、どうかニジンスキーを幸福にしてあげてください。
 どうか、彼をディアギレフとの生活から救ってあげてください。
 そのためならわたしは、どんな犠牲をはらっても構いません……!

 夢は叶った。夢見たそのままに。
 けれど、ディアギレフが受けたショックはニジンスキーの思惑をはるかに超えていた。
 そのために、ニジンスキーは絶対的エースの地位を失ってしまった。
 そして自分は、真実を知る罰を負ってしまった。

 
 電報を床に落とし、泣き崩れたロモラの肩を抱き寄せ、ニジンスキーはこうなぐさめた。
「悲しむことなんて、ない。ぼくは芸術家なのだから、バレエ・リュスにいなくても、仕事はできる」

 ニジンスキーはやさしい。
 たとえ利用されたのだとしても、いま在るこのやさしさを嘘だとは思わない。

 けれど、彼の言葉を信じていいのかはわからなかった。
 あのアルルカンは。あの牧神は。踊る予定だった奴隷のヨゼフは。
 それはバレエ・リュスというプロジェクトから生まれたキャラクターたちだ。たとえ彼自身の振付であったとしても、ディアギレフがプロデュースする企画の一部だ。バクストの色彩あざやかな美術と衣装。ストラヴィンスキーやリヒャルト・シュトラウスの実験的で胸ざわつかせる音楽。訓練を積んだハイレベルな団員たち。
 あの奇跡のような環境だからこそ生まれた作品を、彼はもう踊れない。わたしがバレエ・リュスの薔薇を手折ってしまったからだ。ちぎれた薔薇の茎は、もう、かつての土には還らない。

 その薔薇は、バレエ・リュス以外の場所でも咲けるのだろうか。
 わたしは、彼を誘惑する女ではなく、彼の鎖を解く金の翼の天使になれるのだろうか。