Writer/文筆家

【連載】『わたしが推した神』ACT2-2 わたしはダンサーになれない

 

 バレエ・リュスの南米公演に参加する団員は限られている。
 しかもこのツアーでは、クラシック作品のレパートリーを上演する機会も多い。ダンサーの頭数が必要だ。自腹を切って無理やり巡業についてきたロモラにも、ついに役があてがわれた。

『白鳥の湖』の王子の花嫁候補、『シェエラザード』のパ・ド・トロワ、そして『牧神の午後』のニンフのひとり……。
 舞台に立てるのはうれしい。でも、自分の踊りの未熟さはわかっている。ニジンスキーに見られるのはいやだった。彼は自分の出演がない日は、客席から公演の様子をじっと眺めているのが常だった。
 彼の身体は見たいのに、自分の身体は見られたくない。ずっとつきまとっているジレンマだ。

「ねえお願い、今日は客席に来ないでほしいの」
 新妻らしい甘えモードでそう切り出したものの、ニジンスキーはその願いをバッサリと斬った。
「だめだ。ぼくは、みんなを、チェックするんだから」
 劇場でのニジンスキーは完全な仕事人だった。妻だからといって、自分の楽屋には入れてくれない。ボルムのように、舞台袖で冗談を言って緊張をほぐしてくれたりもしない。自分が出演するときは役に入りきって、人の輪にいっさい加わらない。出演しないときは、皆の様子をリハーサルから本番に至るまでつぶさに観察して、指示やアドバイスをおくる。ディアギレフ不在のツアーにおいて、彼は事実上の座長だった。
 まるで立ち入れない。「コミュ障男子!」と心の底で罵った過去をロモラは恥じた。彼のドライな態度やしぐさは、役柄や作品に専念するために必要な精神のバリケードだったのだ。

 けれど、舞台を終えて、ホテルに戻ったあとは……?

「きみに、伝えたい、話がある」
 結婚式から間もないある日、ニジンスキーは、かしこまった様子でロモラに告げた。その話をするために、わざわざギンツブルクから何時間かフランス語のレクチャーを受けてきたという。ときおりセリフを思い出すように視線を天にさまよわせつつ、彼はロモラに向けてゆっくりと語り始めた。自分とディアギレフの間に、数年にわたって存在していた肉体関係を。
 噂はやはり本当だったのだ。
 震えるような思いでロモラはその話を聞いた。19歳の頃には、すでにディアギレフと性的な交わりを持っていたこと。彼は恋人を舞台の上でもベッドの上でも愛したい男なのだということ。バレエ・リュスが、そうしたプロデューサーの欲望ありきで成り立ってきたこと。けれど最近は喧嘩も増えて、かつてのような関係は消滅しつつあったこと。疎ましさのあまり、彼を道ばたで突き飛ばしさえもしたこと。

「でも、ディアギレフは、わかってくれる」ニジンスキーは言い切った。
「この結婚にも、きっと、賛成してくれる」

 なぜ? 正式に別れたわけではないのでしょう? どうしてそんな風に確信できるの?
 たとえそう突っ込んだとしても、ニジンスキーの語学力ではきっと答えられないだろう。成立しない質疑応答。片言どうしのぎこちなさに耐えかねるように、ニジンスキーはロモラをベッドに連れていき、彼らは服を解き合った。ダンサーの身体。舞台の上で舐めるように見てきた身体。あの巨漢のプロデューサーに捧げた身体。パリの娼婦の前で何度も果てた身体。舞台の上で何万人もがすでに愛してきた身体。あなたの身体は「はじめて」ではない。人類にとって。そしてわたしにとって。

 でも、わたしの身体は「はじめて」だ。
 こんなにも怖じ気づいているのを、愛撫が不慣れなのを、触れるだけで痛がっているのを見れば、彼にもきっとわかるだろう。けれど、わたしが何を願っているかは理解できる? 想像できる?
 わたしは自分の身体を捧げる。あなたに。あなただけに。あなたに比べたらまるで至らない、目をそむけたくなるほど無様なダンスしか踊れない身体だけど。これほど額に脂汗を滲ませているのに、目尻に涙を浮かべているのに、岩の上ではたちまち干上がってしまう身体だけど。
 そんな身体でも、わたしは、あなただけの少女でありニンフでいたい。

わたしの踊り、……どう?
 片言のロシア語で、思い切って尋ねたのは、それから何夜かを経た頃だった。
 客席に来ないでほしいの。そう言って以来、ニジンスキーは何か思うところがあったのか、ロモラに役を与えるのをやめてしまった。怒ってしまったのかと思いきや、ホテルの部屋に帰ってきてからの態度は特に変わらない。心のうちを訊きたかったが、いったい何を知りたいのかは当のロモラにもわからなかった。ほんとうはこう訊きたかったのかもしれない。わたしの身体、……どう? いまはこんなに不器用で、ぎこちないけど、あなたをちゃんと満足させられそう?

「きみは……」片言のフランス語が返ってくる。
「一流のダンサーには、なれない」

 絶句した。ニジンスキーは平静な顔つきだ。
「どうやっても? 本当に無理?」食い下がっても答えは同じだ。
「うん、一流のダンサーには、なれない」こともなげに言う。「素質はある。ただ、始めたのがとても遅い。だから、テクニックが足りない」

 ダンサーになりたい。
 それは当初、ニジンスキーに近づくための方便にすぎない夢だった。けれどいざ言われてみると、意外なほどショックだった。欠かさずレッスンに通って、ストレッチや筋肉づくりにも励んで、自分なりに頑張ってきたつもりだった。ニンフの踊りだって、集中力を研ぎ澄ませて取り組んだおかげで、他のダンサーよりもずっと早く振付を覚えられたのに。
 指になじみつつある結婚指輪に目を落とし、そっと撫でる。それでも、最大の目的を果たした以上は、もう忘れるべきなのかもしれない。
「それなら、わたしはもう舞台には立たない」
「いや。全部をあきらめなくたって、いいよ」驚いたようにニジンスキーは返した。「たとえば、ぼくがきみのために振り付けた、ある種の踊りなら、きっと、きれいに踊れる」

 ある種の踊り……?

 ぶかぶかの紳士パジャマをまとった自分の姿が目に浮かんだ。ギンツブルクのすすめにしたがって、船室の鏡の前で一瞬だけ見たあの姿。あどけない村娘でも気高い姫君でも、薄いヴェールを脱いで水浴びをするニンフでもない。中性的ですらっとした「少年」。ひょっとしたらニジンスキーは、わたしのそんな姿を想像しているのだろうか?
 かすかな恐れとともに、ロモラは強く首を振った。
「いいえ。もう立たない。あなたの才能を助ける方が、わたしにとっては大事だもの」

 後ろめたさがないわけではなかった。
 大女優の母。ピアニストの姉。プロとして芸術の世界に生きる彼女たち。まだふたりからの返報はない。いったい、この結婚をどう思っているのだろう。大反対されたって手遅れだ。けれど祝福されるシーンを想像しても、それはそれで胸がぎゅっと詰まった。なーんだ、おさまるところにおさまったってわけね。内助の功に徹する人生。商人の息子を捨てて、すったもんだの末に、バレエ・ダンサーのお嫁さんになった。まあ、めでたしめでたしね。
 ねえ、旦那はどれくらい稼いでるの? どこに住むの? 子どもは何人の予定?

 変化があらわれたのは、ウルグアイの都市モンテヴィデオでの公演中だった。
 コーヒーの匂いをかぐと気持ち悪くなる。レストランやカフェに入るだけで吐きそうだ。そんな日が何日も続いた。よりによってコーヒーのメッカの南米で、だ。団員たちは心配するどころか、げっそりしたロモラを見てニヤニヤしている。
「おめでとう」
 早くもそんな声が飛んでくる。とんだセクハラだ。ところが医者に診てもらうと、ゲスの勘ぐりは見事にあたっていた。

 こんなに早く身ごもってしまうだなんて。動揺が先に立ったが、ニジンスキーは無邪気に喜んだ。ふたりともまだ若いし、旅回りの生活が当面は続くから、5年間は子どもができないように気をつけよう。わざわざギンツブルクに通訳を頼んで、慎重な取り決めを交わしたのに。いざ事が起こると、約束を忘れて有頂天になってしまった。
「きっと、この子は、すばらしいダンサーになる」
 そんな風に言われれば、今回は堕ろしたい、なんてとても言い出せない。ロモラもニジンスキーの前で笑顔を作るより他なかった。
 
 ニジンスキーは結婚してからご機嫌だ。
 そうささやく団員は少なくなかった。あの「薔薇の精」といえど、やはり根はまっとうな男だったか。妻をめとり、一家の長としての責任感を身につけた彼は、ダンサーや振付家としての仕事にますます打ち込み、名声をほしいままにするだろう。
 妻の妊娠。それは彼がプロデューサーとの同性愛から、そして少年愛の対象から卒業し、一人前の社会の成員になった証明のようにも見えた。
 
 
 ロモラのつわりは重かった。
 南米ツアー最後の公演地であるリオ・デ・ジャネイロに至って、体調の悪さはピークに達した。ニジンスキーはベッドでうなされているロモラを気遣いつつも、支度をととのえ、劇場に向かおうとする。その背中に向かってロモラは叫んだ。
「行かないで……!」
 叫びながらも、自分にあきれた。夫はダンサーなのに。そんなわがままが通用するわけがない。ましてや今夜はあの『ル・カルナヴァル(謝肉祭)』を踊るのだ。わたしを彼とめぐりあわせた美しいアルルカン。代役なんていない。あんなアルルカンを演じられるのは、ヴァーツラフ・ニジンスキーだけなのに。
 なにやってるの? わたし。 
 わけがわからなくなりながら、ロモラはなおも叫んでいた。行かないで。つらいの。わたしをひとりにしないで。
 セックスはふたりでしたのに。なんで片方ばかりこんな目に遭うの……!

 ニジンスキーは振り返った。そして、あっさりと言った。
「わかった、行かない」
 信じられなかった。
 けれど、ニジンスキーはベッドの脇に腰かけ、ロモラの青ざめた手をとって薔薇色のキスをした。
 きょうの公演は、出ない。きみが、望むなら。

 このときは誰も想像していなかった。
 喜びと情けなさが入り混じった涙を流すロモラも。うっすらと微笑むニジンスキーも。新婚ダンサーのドタキャンを知ってやれやれと肩をすくめたギンツブルクも。怒り心頭のグリゴリエフも。誰も想像していなかった。よもやその一晩を、ディアギレフが復讐のために利用しようとは。