ロモラは号泣していた。
「どうしたの? 具合でも悪いの?」
「お茶でも召し上がったらいかがですか?」
「ロモラお嬢様ったらぁ、開けてくださいよぉ」
1等船室のドアにひびくノックの音も無視して、号泣していた。
ひどい、ひどい、ひどい……!
みんなとっくにわたしの想いを察して、あざわらって、ネタにしていたのだ。
あげく、哀れなガチ恋女を、こんな最悪のドッキリで騙しにかかるだなんて。
しゃくり上げるたびに、恨みと恥ずかしさが交互にこみあげる。
わかってた。少なくとも途中で、ちゃんと気がついた。アンナのツッコミが正しいことを。結婚なんて到底ありえないってことを。いつかはその夢を大西洋の海原に投げ捨てなければならなくて、一年半の熱情が泡沫となって消えていったそのときに、わたしの旅は終わるのだということを。
自分の意志で終わらせたい。そう願っていたのに。
こんな形で幕切れを迎えるだなんて。
リオ・デ・ジャネイロに着いたら、すぐにこの船を降りよう。そして折り返しの船に乗って、ヨーロッパへ帰ろう。そのあとの自分の運命はわからない。母も継父も叔母もきっと笑うだろう。あら、もう帰ってきちゃったの。そして何事もなかったように、新しいお見合い話を持ってくるだろう。
でも、いまのわたしは、これまでのわたしじゃない。それだけは確か。もう望まない道は選ばない。
推しは人生をサバイブする力を授けてくれたのだから。
彼にもさよならを言わなければ。それだけはつらいけれど。せめてこのドッキリを知って、自分のファンを悪質なやり方でからかったと怒ってくれたら。それだけでも救われる。
泣きすぎて頭が痛い。
もう夕食が終わる頃だ。鼻をぐずつかせながらふて寝していると、一通の手紙が船室に届いた。
送り主はギンツブルクだ。
いたずらのお詫びか。のろのろと封を切ったロモラは、そのまま紙を取り落とした。
「どうして逃げておしまいになったのですか。もしデッキまでいらしてくれないのだとしたら、せめてあなたのお返事だけでもお知らせください。私はニジンスキーに結果を知らせなければならないのです」
午前中の出来事が脳裏によみがえる。
快晴のデッキ。肌が焼け焦げそうなほど強烈な陽光。髪をくしけずる潮風。
南西からゆっくりと迫りくる南米大陸。
「ロモラさん。ことばの問題で、ニジンスキーはあなたと直接お話ができません。でも彼は、こう伝えたいとわたしに頼んできたのです。
あなたと結婚したい、と」
神妙に告げるギンツブルク。その言葉をさえぎって叫ぶ自分。
「なんでそんなひどい冗談を言うんですか!」あとは言葉にならない。「あなたって方は、どうして、わたしを……」
血がぐらぐらと額まで燃え立つ。あふれ出した涙を止められず、きびすを返し、階段を駆け下り、船室へ転がり込む自分。廊下に甲高くひびく鍵掛けの音。
階段をおりる間際、デッキのかなたに見えたギンツベルクの当惑した顔。……
あれはドッキリじゃなかった……?
クローゼットにつるしたイブニング・ドレスに着替え、アンナをそっと招き入れる。ぐしゃぐしゃになった髪を整え直してもらって、ひとり、氷のように静かにデッキへ出て行く。もう夜も11時だ。さすがに誰もいない。ほっとため息をついた矢先、目の前にひらりと黒いシルエットがあらわれた。
「マドモアゼル……」
影はロモラの前で優雅に右手を動かし、左手の薬指をさした。たどたどしいフランス語が、波のざわめきに混じって聞こえた。
「あなたと、わたしと、……」
『白鳥の湖』の王子の所作さながら、ニジンスキーは、デッキの上で誓いのマイム(身振り)を行っていた。
ああ、チェケッティ先生。
震えが止まらない。これはあなたが教えてくれた「結婚」というマイムですよね?
そして、これは「承諾」というマイムで合っていますよね?
ロモラは両手をゆるやかに動かし、声を出した。
「はい、はい、はい……!」
ヴァーツラフ・ニジンスキー、婚約。
そのニュースは、一昼夜で船上をかけめぐった。
絶句する人。大声で叫ぶ人。遠巻きに噂する人。信じる人。疑う人。翌日の夕食の席では、バレエ・リュスの団員みながニジンスキーとロモラを交互に見比べて、噂の真偽をささやきあっていた。
ロモラに祝福を告げに来てくれる団員もいた。いっぽう、真っ青になってロモラを呼びとめた団員もいる。アドルフ・ボルムだ。
「ロモラ、どういうことなんだ。きみは彼に気があるようにはとても見えなかった」
「わたし、自分の考えや気持ちを全部あなたにしゃべったわけじゃないもの」
「きみはまだ子どもだ。それにアーティストとしての彼しか知らない」
ボルムの顔からはいつもの笑顔が消えていた。
「忠告しないわけにはいかない。俺はきみの家族から親切なおもてなしを受けた。だからこれはぼくの義務だ」
なるほど。つまりは「お目付役」ってことですか。アンナと同じ。どうせ、わたしを人畜無害なお嬢さまと思って舐めていたのでしょう。それはあなたの過失。
ボルムの前に向き直り、ロモラはきっぱりと言った。
「たとえあなたが正しかったとしても、わたしは彼と結婚するから」
ついでピアニストのルネ・バトンの妻が、溜まり場に駆け込んでくるなり叫んだ。
「お願い、誰か来て! 女の子がヒステリーを起こして倒れちゃったのよ。ニジンスキーの結婚にショックを受けて」
別の2等船室では、何人かの団員たちが心配そうに扉をノックしていた。バレエ団の振付助手をつとめるマリー・ランべールの部屋だ。小さなすすり泣きが廊下まで聞こえてくる。団員たちは顔を見合わせた。
「彼女、好きだったもんね。ニジンスキーのこと」
自分だけじゃなかった。ニジンスキーに「ガチ恋」していた人は。
昂奮が胸にこみあげる。当然だろう。彼はそれだけ魅惑的な男性ダンサーなのだから。バレエ団の内部にも、外部にも。何百人も、何千人も、何万人も。彼の舞を知るみんなが、彼に恋した。
けれど、手に入れたのはわたし。
目もくらむような歓喜に打ち震えながら、ロモラは質問攻めにやってくる団員たちの前で、ほほえみと共にうなずいた。ええ、わたしのものになったの。この世でもっとも美しい一輪の薔薇の花は。
ひとしきり騒ぎ、すっかり疲れきった団員たちと別れて、ロモラは自分の船室に戻ろうとした。途中で気配を感じてはっとする。ニジンスキーが後ろからついてきている。振り返ると、彼は自分の船室のドアの前まで立ち止まっていた。入っておいで。そう言っているように見えないでもない。
少女を誘惑する薔薇の精。
ニンフを追いかけ回す牧神。
これまでに観てきた無数の推しの姿が目の前をよぎった。
考えてみたら、もう彼の身体は知っているも同然だ。舞台の上で、あるいはレッスン場で、裸も同然の彼をさんざん舐めるように見てきた。皮膚から透ける骨も。腕や足のしなやかな筋肉も。耳の裏から指先まで流れ落ちる汗のしずくも。腰回りの存在感のある曲線さえも。
手に入れるとは、手に入れられること。ロモラは身をこわばらせた。わたしは、わたしの身体をまだ誰にも明け渡したことはない。元婚約者に首すじをキスされたときのぞっとする感触。あの記憶が経験のすべてだ。
どうしよう。あんなにわたしを見てと願っていたのに、いまは見られるのも、触れられるのもこわい。ニンフのヴェールを岩の上に置いて、その上に自分の身体を横たえ、弓なりになって果てる牧神。わたしの身体はあのヴェールになるの? これから、このドアの向こうのベッドの上で?
呆然と立ちつくしていると、ニジンスキーはつかつかと歩み寄り、背ををかがめて自分の右手をとり、キスをした。ほんの一瞬だった。唇と手を放すと、彼は去って行った。そのまま自分の船室へ入っていく。ドアは音もなく優雅に閉められ、あたりはふたたび静寂に包まれた。
誰もいない廊下で、ロモラはへなへなと腰を抜かした。ほっとする一方で、拍子抜けもした。
──あれ? ひょっとして、これ、怒るべきところ?
ブダペストの実家にある、亡き父の蔵書コレクションを頭のなかで繰る。ボッカチオ、シェイクスピア、サッフォー、カサノヴァ…………彼らは初夜について何かを書いていただろうか。母や叔母や姉の顔も思い出す。婚約したら身体を許しても良い。ハンガリーではみんなそう言っていた気がする。もしかしたら、ロシア人は考え方が違うのだろうか?
わからないことが多すぎる。船上では訊ける人もいない。いま枕を涙で濡らしているあの子やあの子を思えばなおさらだ。「婚約したのにニジンスキーが抱いてくれない。これは異常ですか?」だなんて。
キスされた手を、そっと胸に抱え込む。心臓が大きく波打っていた。薔薇の精は、眠る少女の前に現れ、ただ夢だけを与えて窓の向こうへ飛び去っていく。この脈動はときめきなのか。不安なのか。船は南米への上陸へ向けて最後の蛇行をはじめていた。
1913年9月10日。
結婚式は、巡業先のアルゼンチン・ブエノスアイレスにある教会で行われた。
ギンツブルク男爵に導かれ、22歳の花嫁は教会の前に現れた。
ワーグナーの『ローエングリン』の結婚行進曲とともに、ロモラは教会の側廊へとしずしずと歩いた。団員やスタッフの手助けで、急ごしらえながら、なんとか婚礼にふさわしい出で立ちになった。薄いクリーム色のウェディングドレス。白いヴェールと靴。ブーケは、結婚の象徴であるオレンジの花を入れることはできなかったが、白い花弁の大ぶりの花をあしらい、とびきりゴージャスに仕上がっていた。
式はとても長かった。まばゆいくらいに着飾った司祭が、ラテン語とスペイン語をまじえて説教をする。ロモラは終始ぼんやりとその声を聞いていた。
なにもかも白っぽくかすんで見える。まるで現実感がない。
わたしはほんとうに結婚するのだろうか? わたしの推しと?
にぶい金色の結婚指輪はリオ・デ・ジャネイロでたしかにニジンスキーが選んでくれたものなのに、指にはめられても、金属の冷たい感触が神経にしみるばかりだった。
アンナは取り乱していた。ホテルで着替えをはじめたロモラが、女性の団員たちに世話を焼かれ、美しい花嫁に変貌していくのを目の当たりにして、完全に取り乱していた。コスプレじゃない。舞台衣装でもない。ほんとうの花嫁だ。まさかこんなことになるなんて。エミリア奥様はいったいどんな顔をするだろう。すでにブダペストには電報が打たれていたが、まだ返報はなかった。
もうひとり、不穏な表情を隠せずにいる人物がいた。バレエ・リュス幹部のセルゲイ・グレゴリエフだ。感極まって眼をうるませているギンツベルクの横で、彼は眉間に深く皺を寄せていた。まさかこんなことになるなんて。ディアギレフはいったいどんな顔をするだろう。極秘の電報は、先ごろ打った。しかしすぐに一般人の耳にも届くだろう。教会には外野もわんさか詰めかけている。アルゼンチンの社交界の人びと。物見にやってきた近隣の住民。カメラをたずさえた報道陣。世界のバレエ界が大騒ぎになるのは時間の問題だ。
ディアギレフは少なからず怒るにちがいない。いったい、どうやって取り繕うつもりなのか? ギンツベルクは、ニジンスキーは、そしてこの、ろくに踊れもしないのになぜか団に混ざっていた、うさんくさい花嫁は?
太った年配のアルゼンチン女性が、ロモラを力いっぱい抱きしめる。窒息しそうなほどの腕の強さにあっぷあっぷしているのを見て、みんなが笑った。「幸せになってね!」そんな声があちこちから聞こえる。ニジンスキーはずっと神妙な顔をしている。式の余韻に浸っているのだろうか。ロモラは彼から目をそらし、カメラと野次馬の前に、とびきりの笑顔をふるまった。ありがとう。わたし、幸せになる。
プティ。もうそう呼ぶ必要すらない。最愛の推しはわたしの夫になったのだから。