Writer/文筆家

【連載】『わたしが推した神』ACT3-4 たとえば、銀橋から高く飛翔したなら。

 
 宝塚歌劇にとって、パリは特別な場所である。
 1924年の宝塚大劇場の落成は、宝塚歌劇の世界観を大きく変えた。箱のサイズにふさわしいスペクタクルな作品を求めた結果として生まれたのが、第一次世界大戦後に世界で流行した、歌とダンスとドラマを華やかに詰め込んだ音楽劇「レビュー」だ。欧米研修旅行から帰国したばかりの演出家・岸田辰彌が、宝塚歌劇のために作った初のレビューが、1927年に花組で初演された『モン・パリ』だった。主人公が、中国、スリランカ、エジプトなどの世界各地をめぐりながら、最後にフランスにたどり着き、パリの街の美をたたえるというストーリーだ。オープニングで歌われるヴァンサン・スコット作曲のシャンソン「モン・パリ」は、まさにパリへの憧れをつめこんだ歌だった。

ひととせ余りの永き旅路にも つつがなく帰るこの身ぞいと嬉しき めずらしき外国とのうるわしの思い出や わけても忘らぬは巴里の都……

『モン・パリ』は空前のヒットを呼び、続編『パリ・ゼット』ほか、フランスを舞台とする豪華絢爛たる作品が数多く制作された。まだ海外旅行が特別だった時代の観客にとって、宝塚観劇は擬似的なパリ旅行だったのだ。
 明石照子もまた、『シャンソン・ド・パリ』『ボンジュール・パリ』『ウイ・ウイ・パリ』などの作品で観客にパリの香りを届け続けた。とはいえ照子自身はパリへ行ったことはない。シャンソンを得意とする歌い手である照子にとって、パリへのあこがれは人一倍だった。

「パリに行けば、シャンソン歌手のイヴ・モンタンにだって会わせてあげられる」
 しじゅう戸惑った顔で指輪を見つめていた照子が、そのことばにだけは瞳を輝かせたのを、ロモラは見逃さなかった。

 明石照子が、ニジンスキー未亡人から養女になってほしいと請われている。──
 その噂は、すでに宝塚のムラ内を超えて世間に広まっていた。
 1960年1月の最愛の祖母の死が、その噂の信憑性をますます高めた。86歳。近いうちにそのときが来ると覚悟はしていたが、それでも唯一の肉親の死は照子の心を虚ろにさせた。
 葬儀から四十九日の間も、ロモラからは定期的に電話や手紙やプレゼントがあった。祖母の不幸を打ち明ける気力はまだなかったが、彼女が心を寄せてくれていることは、天涯孤独の身に少なからぬ慰めになった。
 そんな折、ロモラから届いた手紙を開けた照子は、思わず息を呑んだ。いわく、つい最近、風変わりな夢を見たという。ロモラが日本の田舎道をひとりで歩いていると、お寺の門の前にひとりの老婦人が立っている。よく見ると、それは照子の祖母だった。彼女は照子がまだ幼い頃の写真をロモラに渡して、こう言った。「この子をわたしの代わりに世話してください」──

 こんな奇跡があるだろうか。まだロモラには祖母の訃報を伝えていないのに。
 祖母は、ロモラを介して自分に遺言を残してくれたのだろうか……?
 照子は手紙をそっと胸に抱きしめ、漆黒のジャケットの袖にひとしずくの涙を落とした。

 一方のロモラは、サンフランシスコの自宅で、送った手紙についてさまざまに自問自答していた。
 夢を見たのは嘘ではない。自分に予知夢の才があるのも知っている。けれど、これは果たして予知夢といえるだろうか。すでにかなりの高齢である彼女の祖母の死はいつ訪れてもおかしくない。自分はあんな手紙を書いて、身寄りがないに等しい彼女の弱みにつけこんでいるのではないか。優雅な生活と金と愛の温もりをちらつかせて、芸者を身請けしようとする成金の旦那のように。

 そう自覚しつつも、ロモラは照子を手に入れようと必死になる自分を止められなかった。頑丈とはいえない身体を酷使して、長旅を繰り返してきたせいだろうか。このところはサンフランシスコに帰ってきた途端、糸が切れたように体調を崩すことも増えた。そんな日には日本に国際電話を掛けて、おぼえたばかりの「さびしい」という日本語で照子の気を引いて、甘えたくなった。彼女は自分よりもずっと年下で、しかも歌劇団のトップスターとして多忙な生活を送っているのに。
 結ばれるには年をとりすぎている。それはその通りだ。でも、これはまちがいなく恋だった。嘘はひとつもない。
「テーリー。わたし、あなたのこと、毎日、考えてしまいます」
 受話器を握りしめながら、つい弱々しい声を出してしまう。
「会いたい」

「外国人のいう“養女”は、日本で考えるほど大それたものじゃない」
 照子にそう助言したのは、バレエダンサーの小牧正英だった。宝塚ホテルでふたりを目撃して以来、彼は幾度となく照子の相談に乗っていた。
「娘分として面倒を見る。いわばパトロンにシンニュウを付けたようなものだ」マイムさながらの優雅な仕草で、天に指でシンニュウの流線を描く。「明石くん、これは絶好のチャンスとみるべきだよ」
 自身も海外のバレエ団で欧米人と肩を並べて踊り、外国人アーティストの日本招聘にも力を入れる小牧は、世界の壁の高さも、それに挑む難しさもよく知っていた。潤沢な資金とコネクションを得て海外で経験を重ね、表現者として何段階も飛躍できるチャンスがあるならば、それは最大限に利用すべきだ。それが小牧の考えだった。
 それでも顔を曇らせたままの照子の背中を押すべく、彼はつとめて明るくこう言った。
「しかも相手は同性だろう。いいじゃないか」
 相手は同性──。
 小牧が安心材料として出してきたそのことばに、照子は口をつぐんだ。たしかにこれが男性だったなら、どんな人であろうが迷うことなく断っただろう。恐れ多い想像ではあるが、もしそれがニジンスキー本人からの誘いであったとしても。
 しかし、だからといってロモラをたやすく「安心」と見なしていいのだろうか。その考え方はかえって、彼女の心を踏みにじるように照子には感じられた。

 宝塚歌劇団も、小牧と同様、ニジンスキー未亡人をまったく警戒していなかった。
 それどころか、ロモラの照子への執心を積極的に喧伝しさえした。宝塚ファン向けの公式雑誌『歌劇』はもちろん、新聞や『週刊女性』のような大衆雑誌にまで、ロモラと照子の関係をめぐる記事が掲載された。もちろん、照子にはまだまだ宝塚で活躍してほしい。うっかり海外移住なぞされてしまっては困る。だが目利きの外国人にそれほどまでに気に入られている事実は、彼女自身のみならず宝塚歌劇団にも箔をつける。
 多忙な男役トップスターに対して、前代未聞の特別休暇──「芸の見聞を広めるための2週間のパリ旅行」が許可されたのもそうした理由からだった。この特報にテーリー・ファンも大いに沸いた。ニジンスキー未亡人からパリに招待されるなんて、さすが我らのご贔屓! 歌劇団や公式雑誌には、大興奮したファンからの投書が殺到した。

 出発の2日前、 『歌劇』 記者からの取材を受けた照子は、トップスターにふさわしい貫禄の微笑を浮かべながらこう答えた。
「ロモラさんは1ヶ月位とおっしゃってるんだけど、私も遊んでる身じゃないしそうもいかないのよ」
 ファンの皆さんに一言。そう向けられて、誌面越しに小粋なウインクを送る。
「すぐ帰ってきますから待っていてネ」……
 


 1960年11月22日、照子は羽田空港からパリに向けて飛び立った。

 パリの街は想像を裏切らない美しさだった。自分の庭のようにパリの街をよく知るロモラに連れられて、照子はあらゆる観光地を巡った。シャンゼリゼ、凱旋門、エッフェル塔。舞台背景で、あるいは歌詞の一部として知るだけだった風景が、いま目の前にある。薄暗くて雨も多い冬どきなのに、レビュー『パリ・ゼット』そのままのように、花屋の娘がすみれを売っているのに感激した。宝塚とパリは、すみれを介してひとつに繋がっているのかもしれない。
 もちろん劇場通いも欠かせない。ミュージック・ホールであるモガドール劇場ではオペレッタを観て、モンマルトルのナイト・クラブではシャンソンを聴いて回った。約束通り、シャンソン界のスターであるイヴ・モンタンの美声を聴くこともできた。レビューの女王と呼ばれたミスタンゲットの「サ・セ・パリ(そうよ、これがパリ)」は、照子も宝塚でよく歌った曲だった。

パリは金髪娘 訪れる人はみんな 抱きしめられてうっとり 誰もが帰ってきちゃう パリの愛のもとに……

 陽気な歌なのに涙をそそるのは、宝塚からひととき離れて、人生初の異国へやってきた感傷からだろうか。旅のお土産話を聞いてくれる祖母がもういない現実をふっと思い起こしたからだろうか。それともすぐ隣に、自分を愛してくれる女性がいるからだろうか。涙で曇った眼をぬぐうと、そこには、煙草をふかしながら微笑んでいるロモラがいた。

「ショーは、40分も、たったひとりで場を持たさなければならないんですね」
 一生懸命に気の利いたことを言おうとして、わけのわからない涙がこぼれた。
「わたし、あんな風にやれるかしら」……

 

 深夜。
 チュイルリー庭園にも近い一等地の老舗ホテル・ロティの一室で、照子は旅に疲れた身体をソファにあずけ、ひとり物思いにふけっていた。

 幼くして両親を亡くした寂しさは、宝塚に入って和らいだと思っていた。小林一三は生徒たちを実の子どものように可愛がり、ときに自分を「お父さん」と呼ばせた。いうなれば宝塚は血の繋がりのない大家族だ。男役も娘役もない。みな良くも悪くもこの劇団のなかでは永遠に未婚の娘であり、父たる運営陣に手厚く守られながらひたすら芸を磨いていられた。
 けれど小林は3年前に世を去った。自分も永遠にここにいられないことはわかっている。トップにまで上り詰めた以上、いつかは誰もがその座を降りる。

 その先を考えるのは、照子にとって恐怖だった。最後の肉親であった祖母ももういない。「男役」でも「娘」でもなくなるこれからの人生をどう生きればいいのだろう。銀橋の上でひとり身をすくませていたところに、自分を受け止めるべく大きく腕を広げてくれたロモラの愛を彼女は想った。養女。そのことばの意味は照子なりに理解しつつあった。 きみたちはみんな、わたしの娘だ。そう言った小林一三の次に現れた人、ロモラ・ニジンスキー。 血の繋がりなきまま、肉親以上に血を通わせる。その愛の温もりの先にこそ、宝塚を去ったあとの人生のステージが待っているのかもしれない。

 ロモラに実の娘がふたりいるのは知っていた。けれど、自分を養女にするよりも彼女たちを大事にして、と言う気にはなれなかった。血縁があったらあったで、さまざまな面倒があるのだろう。たぶんロモラは、半ばそこから逃げるように生き、紆余曲折を経て自分のもとにやってきたのだ。逃げるのは決して悪いことではない。人間は複雑で矛盾だらけだ。彼女と自分の利害は、完全に一致しているようにさえ思われた。
 舞台上で男役としていくつも演じてきた運命的な愛の物語が、いま、自分の実の人生にまで降りてきた。そんな気さえする。
 けれど──けれど。
 
 隣室から、ロモラが自分を呼ぶ声がする。
 照子は立ち上がり、開演の直前にいつもそうするように、胸に両手を当てて深く息を吐いた。

 ちゃんと彼女に伝えなければ。自分の心を。
 そのためにこそ、自分はパリにまでやってきたのだ。 「芸の見聞を広めるため」なんかじゃない。

 もしかしたら、かのヴァーツラフ・ニジンスキーも、彼女を前に葛藤したのだろうか。自分を一心不乱に見つめて青く静かに燃えるあの瞳。どうか、こちらに来て。お願い。来て、わたしを愛して。わたしもあなたを愛するから。あの切なる呼び声に、広げられた腕の温かさに魅了されない舞台人がどこにいるだろう。踏み越えたいという欲望はこちら側にだってある。第四の壁を超えて、ニジンスキーより高く飛翔して、銀橋から地上に降り立つことができたら。わたしだって無条件の愛がほしい。あなたがそれを欲するように。

 恋人ができて芝居がおろそかになった。結婚して芸がつまらなくなった。そんな風に揶揄されるひとをたくさん見てきた。なんてくだらない中傷だろう。舞台人を馬鹿にしている、とも思う。生身の人間として望む暮らしと、舞台での生を両立できないわけがない。愛ごときで枯れてしまうような芸ではないし、明石照子ではない。

 けれど、ロモラ。
 もしわたしがいま銀橋から飛び降りて、あなたの腕に抱きとめられる道を選んだら。
 あなたにすべてを頼り、あなたの魂と財産を分け合い、あなたの手でわたしの衣食住や舞台の支度をケアさせる、そんな暮らしがはじまったら。

 たぶん、枯れてしまうのはあなたの方なのだ。

 

 照子はそっとノックをして、ロモラが待つ部屋に入っていった。