Writer/文筆家

【連載】『わたしが推した神』ACT3-2 あなたは神に似ている

 

 宝塚歌劇団の生徒にとって、外国人の観客は珍しくなかった。
 神戸に近い土地柄から、在日外国人が劇場を訪れることも多い。外国人観光客の旅のルートとして、京都、奈良、神戸、宝塚はすでに定番コースになっていた。第二次世界大戦を機に中断していた海外公演もこの数年でようやく復活し、1955年からは毎年連続でハワイ公演も行われている。
 けれど、わざわざ帰国先から、しかも日本語の代筆でファンレターを送ってくれる外国人はそういない。

 明石照子は、はるばるアメリカから届いたその手紙を何度も読み返した。
 雪組のトップの座に就いてからはもう久しいが、『戯れに恋はすまじ』のロベルトは、はじめてもらった洋物での伊達男役で、人知れず役作りには苦労した。だからこそ、外国の薫りがする便箋にしたためられた感想のひとつひとつがうれしかった。
「あなたに会いたいので、どうかご都合のよいスケジュールを教えてください」
 差出人は、ロモラ・ニジンスキー──とある。
 たぶん、日本によく来る人なのだろう。日本に支社を持つ企業の社長夫人か、はたまた自ら世界を飛び回るキャリア・ウーマンか。たとえ手紙越しであっても、相手が社会的地位の高いお客様であることは察しがついた。団に相談して、会う許可をもらってもいいだろう。
 まさかそれがあの伝説的バレエダンサーの未亡人だとは、彼女はこの時点では気づいていなかった。

 1959年10月。
 ファンレターの差出人は、再び日本にやってきた。
 その月、照子は星組公演の『アモーレ 』 と『芦刈』に特別出演していた。約束の日の終演後、宝塚ホテルのロビーに現れた婦人は、舞台化粧を落としたばかりの照子をひと目見るや否や、つぼみがほころぶように顔を輝かせた。まるで憧れの“テーリー”を出待ちしている14、5歳の少女のように。しかし日本人としては長身な照子と同じくらいの背丈も、貫禄たっぷりの身体つきも、襟口の大きく開いた漆黒のドレスも、首をふちどる三重の大ぶりなネックレスも、明らかに裕福な西洋の老婦人のそれだ。白い大理石に濃赤の絨毯が映える宝塚ホテルのゴージャスな内装が、これほど様になる宿泊客は滅多にいない。
 ホテルの一室で、片言の英語と日本語でなんとか会話を交わすなか、照子ははじめて事実を知って仰天した。目の前でうっとりと微笑みを浮かべている女性が、仕事や所用のついでではなく、ただ自分に会うためだけに日本までやってきたことを。そのためだけに日本語のにわか勉強までしてきたことを。そして彼女が、「舞踊の神」と呼ばれたバレエダンサー、ヴァーツラフ・ニジンスキーの未亡人であることを。肉付きのいい指の上で色とりどりに輝くリングのひとつが、いまは亡き天才ダンサーとの婚姻の証であることを。

 ロモラの登場に仰天した人物はもうひとりいた。
 男役トップスターに華麗にエスコートされて、ホテルのロビー階への階段をあがってゆく白人の老婦人。……
 その姿をたまたま目撃し、思わず目をしばたたかせた宿泊客の一男性。
 ──日本を代表する男性バレエダンサー、小牧正英である。
 戦前に大陸に渡り、バレエ・リュスとマリインスキー劇場出身のダンサーによって結成された「上海バレエ・リュス」で活躍。バレエ・リュスの主要作品を習得し、帰国したのちは、東京バレエ団や小牧バレエ団の創設にかかわった。宝塚作品のダンス・パートの振付も手掛けており、照子ともすでに何度か仕事をしている。
 だから照子の顔はよく知っている。それはいい。
 驚いたのは、その連れだ。
 自分の記憶が確かなら。あれは亡きニジンスキーの妻ではないか。

 噂はあっという間に宝塚の“ムラ”内に広がった。
 歌劇団の関係者も、ファンたちも、この事態に色めき立った。
 あの歴史に名高いバレエ・リュスのスターの身内が、宝塚歌劇団のスターを絶賛している──!

 実は、バレエ・リュス宝塚歌劇団が誕生した時期は近い。
 バレエ・リュスがパリ・シャトレ座で初公演を行ったのが1909年5月18日。
 宝塚歌劇団が宝塚新温泉のプールを改造したパラダイス劇場で初公演を行ったのが1914年4月1日。
 いずれも第一次世界大戦目前の時代だった。

 似ているのは創設のタイミングだけではなかった。
 片や拠点をもたずに世界じゅうを巡るスキャンダラスなバレエ・カンパニー。片や日本の鉄道文化に根ざしたローカルな歌劇団。一見すると正反対のようだが、その事業の根底には、 舞台を介して祖国の力を広く世に示したいという壮大な夢があった。 バレエ・リュスの創設者であるセルゲイ・ディアギレフは、ロシアの芸術を世界に伝えたいという夢。そして宝塚歌劇団の創設者である小林一三は、日本発のオペラを作るという夢。それを叶えるべく、彼らは財を投じて団を立ち上げた。
 とはいえ、必ずしも祖国の土着的な文化を直接的なテーマにしたわけではない。バレエ・リュスはしばしば東洋を、宝塚歌劇団はしばしば西洋を舞台にし、「ここではないどこか」に観客たちをいざなうことを得意とした。そして最大の特徴として、どちらもジェンダーに関する独自性と革新性を持っていた。 宝塚歌劇団のキャストは女性のみで構成され、バレエ・リュスはヨーロッパで長らく不遇の状態にあった男性ダンサーの復権に貢献した。

 ただし、カンパニーの存続をめぐっての明暗は分かれた。
 バレエ・リュスが火の車の運営を続け、プロデューサーの死によって20年で終焉を迎えたのとは対照的に、宝塚歌劇団は阪急電鉄とともに堅実な成長を遂げた。戦中は国策作品の上演を行い、さらに1年の劇場閉鎖を余儀なくされたが、歌劇団はなんとかこの危機の時代を持ちこたえた。音楽学校卒業と同時に大劇場が軍部に接収されて初舞台の場を失い、勤労奉仕のために西宮航空工場へ駆り出された明石照子は、歌劇団の戦中の苦難と戦後の復興を体現するスターとなった。

 バレエ・リュスは、 宝塚歌劇団の関係者にとって憧れの存在だった。
 日本の文化人や知識人たちは、新聞や書籍を介してリアルタイムでバレエ・リュスの新作を知り、ニジンスキーの名を知り、美しい写真やイラストレーションに惚れ込んだ。そうした世の風潮を受け、宝塚歌劇団は早くも1929年に『牧神の午後』、1935年に『薔薇の精』を上演し、この伝説的バレエ団へのリスペクトの意を示していた。
 だからこそ、そのバレエ・リュスの関係者たるニジンスキー未亡人が宝塚歌劇団の明石照子を認めたとなれば、それは積年の片恋が奇跡的に実ったも同然の出来事だった。小林先生がもう少しだけ長生きしていれば。──そう嘆いた声もあったに違いない。創立者の小林一三は、ロモラの初観劇の1年前である1957年にこの世を去っていた。

 まさか、そんな有名人の奥様だなんて。
 照子は驚きと畏れのなかで未亡人と相対していた。
あなたは夫に似ているの
 ロモラのそのことばもまた、照子を戸惑わせた。婦人がバッグから大事そうに取り出した彼の写真を見ても、どこがそっくりなのかよくわからない 。たしかに鼻は丸っこく、眼も細く、日本人からしてみると親しみやすい顔立ちだ。何より、腕を花輪のように掲げて首を傾げる薔薇の精の写真はなんとも女性的で、両性具有のスターと呼ばれたのもうなずける。けれどそれならば、宝塚の男役であればみな彼に似ているのではないだろうか。今回の星組公演『アモーレ』には、組をまたいで活躍する人気男役の淀かほるや、大ベテランの星組組長である天城月江も出演している。思わず訊いてみたくなった。ノブさんやスロちゃんだって、男装の女優さんですよ。みんな、 どこかしらニジンスキー風なんじゃありません?
 もちろん、雪組トップスターとしての自負はあった。実力でもってこの高名な婦人の心を射止めたならばうれしい。けれど真面目な彼女にとって、その「似ている」の一言は、分不相応で、過剰に重たく感じられた。


 おそらくは歌劇団側からも、かの未亡人を手厚く接待せよ、という要請があったのだろう。
 舞台の合間を縫って、照子はロモラをエスコートしてあちこちを案内した。ロモラが照子の生まれ育ちに興味を抱いているので、宝塚市内にある実家に連れて行って祖母に会わせたりもした。照子の現在の唯一の肉親だった。
 照子は苦労人だった。父親は医者で、もともとは何不自由ない裕福な家の娘であったが、父親は9歳、母親も11歳の頃に亡くなり、この祖母の手で育てられた。戦中に14歳で宝塚音楽舞踊学校に入ったのは、得意の歌で身を立てて祖母に恩を返したいという強い意志があったからだ。欧米の音楽学校や良家の子女が通う高等女学校をモデルに運営され、芸能界というよりも女子修道院のような雰囲気さえある規律と平和が保たれた学校のなかで、不遇な育ちをはねのけるように芸の習得に熱を燃やす照子は異色の生徒だった。彼女の深みのある歌声と存在感は、そうした不断の努力の賜物だったのだ。その事実にロモラはあらためて感打たれたようで、85歳の祖母の前に深々と頭を垂れた。

 折しもその頃、ソビエト連邦からモイセーエフ国立舞踊団が来日していた。
 舞踊家イーゴリ・モイセーエフが1937年に創立した、ロシアの民族舞踊をアクロバティックにアレンジした芸術作品を上演するバレエ団である。この当時は海外のオペラやバレエの巡業公演を宝塚大劇場で行うことが多々あり、照子も勉強のために客席に降りて舞台を鑑賞するのが常だった。
 先に開催された東京公演が絶賛を浴び、関西のダンスファンが心待ちにしていた舞台である。ハイテンポなリズムで繰り広げられるカルムイク地方のダンスや水兵のおどけた踊りを、照子も胸踊らせて見つめていた。
 ロモラさんもきっと楽しんでいるだろう。バレエ・リュスを生んだ国からやってきたカンパニーなのだから。

 ふっと首を横に向けかけて、身をこわばらせた。
 視線を受けるのには慣れている。舞台の上に立つときはもちろん、駅から大劇場までを結ぶ花のみちの側道でも、阪急鉄道の車内でも、行きつけのブティックでも、パン屋でも、郵便局でも。いつどこで、ファンが自分の姿を見つけ、頬を染めて立ちつくしているかはわからない。

 けれど、隣の席から迫るこの強く熱いまなざしは。
 確かめなくてもわかる。照子は首を真っ直ぐに戻し、胸の動揺をしずめるように深く呼吸をした。ロモラは、舞台なぞそっちのけで、一心不乱に照子の横顔だけを見つめていた。