Writer/文筆家

【連載】『わたしが推した神』ACT3-1 やっぱり結婚したい!

「結婚したい、 結婚したい、 結婚したい……」
 
 薔薇色の肘かけ椅子にもたれながら、ロモラは口ずさむように繰り返した。
 結局、日本旅行の間には、あの男装の女優にはじかに会えなかった。
 一緒に記念写真を撮ってもらいましょう。旅の連れにそう提案したが、その願いはかなわなかった。多忙なトップスターたる明石照子は、舞台をはけるやいなや次の仕事のために放送局に行ってしまったのだ。結局、日本に心を残したまま、ロモラは現在の居であるサンフランシスコに帰ってきた。

 日本を訪問したのはほんの気まぐれだった。たまたま遠出する時間の余裕ができたのと、ニジンスキーがいつか日本をテーマにしたバレエを作りたいと語っていたことをふっと思い出したからだ。ロモラ自身も、若い頃からパリのギメ東洋美術館で宝飾を見るのが好きだったし、ロックフェラー医学研究所に務める医師の野口英世や、フランスに帰化した画家のレオナール・フジタとは対面したこともあった。アジアのなかでいちばん親しみを感じる国だったのは確かだ。
 けれど、……
 東洋の一国に対するぼんやりとした憧れは、あの兵庫県宝塚市の劇場で生きた現実となった。
 宝塚歌劇団。雪組。 明石照子。つい先日までは知らなかったことばが、いまは胸の真ん中で熱く脈を打っている。もっと知りたい。タカラヅカという世界を。そしてその世界のトップに君臨する“テーリー”を。現地で得た情報とかき集めた資料をもとに、猛烈な勢いでエッセイを書いた。ロモラ流の「宝塚観劇レポ」である。

「ザルツブルク、バイロイト、エディンバラさながらの芸術の殿堂として、何百万人もの劇場ファンが宝塚の温泉街を訪れます。3つの劇場、たくさんのレストラン、子どもの遊び場、植物園、動物園、スポーツスタジアム──。“ムラ” には旅館や食事処もあり、飛行機や電車で簡単にアクセス可能。演目はゴージャスで演出も巧みです。衣装も背景も実にすばらしく、優秀なディレクターと舞台美術担当がいることがわかります。舞台上には廻り舞台の装置があり、役者たちは三方から登場します。昔ながらの歌舞伎風の芝居だけでなく、モダンな 西洋風のオペレッタも上演されています」

 もう止まらない。勢い、「推し」についても書きまくる。

「この歌劇団のなかでもっとも輝きを放つ美しきスターは、男役を演じている若き明石照子です。彼女は大きな才能に恵まれた、深みと強さを兼ね備えた演技派の女優で、コミカルな役どころも巧みに演じます。ビロードのように美しいメゾソプラノの持ち主で、優れたダンサーでもあります。日本の歌舞伎風の芝居を演じる彼女は、西洋の若い青年を演じるときと同じくらいに魅力的。日本じゅうが彼女を崇めており、劇場に来るすべての女性や若い娘たちが、彼女が扮した青年の放つ色香の魔法に惚れ込んでしまいます」

 気づけばエッセイは5枚にもなっていた。
 書くことで欲望を昇華できるようになったのは年の功だろう。けれど、ペンを置いてなお、胸の鼓動は止まらない。むしろ暖炉に薪をくべるように、想いは燃え上がるばかりだ。
 また行かねば。あの宝塚の “ムラ” に。そして、今度こそは彼女にじかに会わねば。

 推しにすぐに対面できないことには慣れている。ニジンスキーのときだって、初対面までにどれほど時間がかかったことか。
 でも、その願いはいずれ叶うだろう。
 もはや自分はあのときのような20歳そこそこの「ブダペストのお嬢様」ではない。もうすぐ70歳になろうという、欧米のバレエ業界で知らない者はいない名士──ロモラ・ニジンスキー未亡人なのだから。

 彼女の夫──ヴァーツラフ・ニジンスキーは、1950年4月8日にロンドンで生涯を終えた。
 長らく悪化の一途をたどっていた彼の精神状態は、1929年にビンスヴァンガーのサナトリウム「ベルヴュー」に再入院して以来、ゆるやかに持ち直していた。アメリカからヨーロッパに戻ったロモラは、当時の最新の治療法であったインシュリン療法を試させたり、高額な治療費の確保のために「ニジンスキー基金」を設立したりと、さらなる回復のために奔走した。
 しかし、1939年に勃発した二度目の世界大戦が希望を打ち砕いた。アメリカに行こうとすれば、精神病患者にはビザは発行できないと拒絶される。やむなく故郷のブダペストに帰れば、「敵国人」が今度は何をしに来たのかと街の人びとから冷たくあしらわれる。郊外の小さな精神病院に入院させれば、精神病患者を皆殺しにせよという命がドイツ軍によって下され、オーストリア国境沿いの小さな町ショプロンに身を隠さざるを得なくなる。ロモラはニジンスキーの命を守るために身を削る日々を送った。
 終戦後、ようやく平和な日常を取り戻したふたりは、昔からニジンスキーの支援者が多くいるイギリスに移住した。最後の日々は平和そのもので、よもやちょっとした体調不良が死に至るとはロモラも周りの人も想像していなかった。死から6日後にロンドンの聖ジェームス寺院で行われた葬儀には、バレエ・リュス時代の同僚や後輩が多数参列した。現役時代の名パートナーだったタマラ・カルサヴィナ、ひそかにニジンスキーに恋していた振付助手のマリー・ランバート、折しもニジンスキーのもとに遊びに来ていたバレエ・リュスの後輩セルジュ・リファール──。世界じゅうのメディアも、かつての天才の死を大々的に報じた。

  未亡人、ロモラ・ニジンスキー
 そう呼ばれるのにもずいぶん慣れた。いまでは1シーズンのうちに何か国をも飛び回り、ニジンスキーに関連するテレビや舞台の企画に名を連ねる多忙な日々を送っている。活動拠点のサンフランシスコの大学からは舞踊学の教授として、アート・センターからはキュレーターとして就任してほしいというオファーを受けている。ロモラといえばニジンスキー。ニジンスキーといえばロモラ。みなが何の疑いもなくそう思っている。
 しかし、ロモラ自身はひそかにこんな想いを抱いていた。
 もう何十年も前から、自分はすでに未亡人だった、と。

 フレデリカ・デツェンチェ
 その名を呼ぶたびに、いまでも魂が震える。
 彼女は、1933年に結核でこの世を去った。
 最初に身体を重ねた女性リア・デ・プッティも、互いを恋人として慈しみ想いあったフレデリカも、彗星のごとく彼女の前に現れ、そしてあっという間にいなくなってしまった。
 ロモラの心の秘密を知る人は、この世にもういない。同年に刊行されたロモラ著の伝記『ニジンスキー』に刻まれた「フレデリカ・デツェンチェの思い出に捧ぐ」という献辞だけが、唯一のひそやかな愛のほのめかしだった。「彼女の愛情と友情なしにはこの本が書かれることなし」──

 伝記は売れた。想像をはるかに超えて売れた。翌年には、ニューヨーク・タイムズの「週間ベストセラー」紹介コーナーで何度もランクインし、メディアもこの伝記をこぞって紹介した。「ニジンスキーの驚異のストーリー、偉大なるダンサーの妻が綴る注目すべき伝記」──世の求めに応じる形で、1936年にはニジンスキーが書いた手記の英訳抜粋、そして没後の1952年には伝記の続編である『その後のニジンスキー』も刊行された。
 いうまでもなく、高まったのはニジンスキーの名声だけではない。著者であり妻であるロモラもまた然りだ。本が売れれば売れるほど、「ニジンスキーの妻」という肩書は盤石なものとなった。

ニジンスキーがわたしの寝室で夜をともにすることを選んだ夜、わたしは自分の身体を幸福という名の祭壇へ捧げるかのように感じた」「わたしは彼の腕のなかで恍惚となった」──

 1番目の伝記『ニジンスキー』は、 語られた真実と、語られない真実と、語られた嘘がないまぜになった本だった。ロモラは本のなかで自身のセクシュアリティを隠さざるを得なかった。ニジンスキーの妻という立場にある以上、自身の性指向を詳らかにするわけにはいかない。自分のニジンスキーへの想いは出会った瞬間から恋心であり、それゆえに自分は彼を追いかけ、そして結ばれたというラブストーリーを紡がなければ。自分たち夫婦の愛は、ロマンティックかつ神聖でなければならない。
 そんな熟慮の結果、『ニジンスキー』はオイゲン・ブロイラーから精神病の診断をくだされる1919年まで、『その後のニジンスキー』はインシュリン療法を試み始めた1938年以降を描くにとどまった。 自身が女性たちと関係を紡いだ1930年前後の描写はできるだけ避け、 「アメリカで講演や仕事をしていた」という一言で済ませた。

 その一方、別の場面では大胆にクィアな感覚を匂わせた。たとえばニジンスキーとの結婚を夢見ていた若い頃の自分自身の姿を、彼女はこのように描写した。
自覚こそなかったものの、わたしは自分のためにこそニジンスキーを変えたかった。けれど、ずるいことにわたしは、利己的ではないかのような祈りを捧げることで神を欺いていた。全知全能の神は性的な関係においてオーソドックな行為を望んでおり、自分が創造した形を認めないだろうとわたしは考えていたのだ

 オーソドックスな行為──つまり異性愛のセックスこそを倫理的に正しいと考え、だからこそニジンスキーは女性と結ばれるべきと無意識に信じていたかつての自分を、ロモラは厳しく自己批判した。彼女は夫婦愛を描きながらも、同性愛が異性愛に劣るという表現はできる限り避けた。ニジンスキーのことは「生まれながらの同性愛者ではなかった」と見なし、ディアギレフのニジンスキーへの独占欲を批判しつつも、同性間の性的関係そのものは否定しなかった。
 それどころか、ニジンスキー自身にこんなセリフを堂々と言わせた。
ぼくは、人生で経験するすべてのことは、真理を追い求める態度を持ち続けているかぎり、必ず精神を高めるものだと信じているからだからぼくは、セルゲイとの関係を悔やんではいない。たとえ道徳家たちが非難の声を浴びせようともね

 ロモラの執筆を助けた若き文筆家リンカーン・カースティンは、彼女の信念を理解するよき共犯者だった。おそらく彼は生前のフレデリカにも会っていたし、ロモラの性指向を察していた。カースティン自身が性的少数者で、バレエ・リュスの熱狂的なファンであり、詩人のウィリアム・プルーマーや作家のローレンス・ヴァン・デル・ポストらといった若い文化人たちのゲイ・コミュニティの中心メンバーだった。彼は自分の仲間たちを「本当の血でつながった一族」と呼び、惜しみなく愛を注いだ。

 本当の血でつながった一族──
 カースティンの想いには、ロモラ自身も共感をおぼえたに違いない。
 確かに自分はド・プルスキー家という富裕な家に生まれた。家から受けた恩恵には感謝しなければならない。けれど、それと愛とはまた別だ。 家族だから、血が繋がっているからといって強制される愛など無い。あるのは、自ら選ぶ愛だけだ。 父カーロイや叔母のポリーのことは愛していたが、血がつながっているからではない。あくまでも人間として気が合ったからだ。ふたりの娘たちとも、今では手紙をやりとりしたりおしゃべりを交わす機会が増えたが、それも彼女たちが大人になって、友人のように話ができる間柄になったからだ。
 フレデリカとの関係を不思議がる母親に、勢い余ってこんな反論の手紙を書き送ったこともあった。
わたしは、母親や子どもに対する生まれ持った愛ではなく、自由意志でもって選んだ人に対する愛について言っているの。わたしにとっては、ヴァーツラフとフレデリカだけがそういう人でした。彼らはふたりとも、心と魂に善をもっています

 しかしいまやロモラは、精神的にも、社会的にも、パートナーと死別した人間だった。
 その変化が、ロモラの人生に新しい光を投げかけつつあった。自分はふたたび独身に戻ったのだ。しかも、そうなってからすでに8年が経っている。思いがけず生まれた新たな希望が、胸をうずかせる。

 再婚──。

 1950年代。同性同士の婚姻が認められている国は、まだ、世界のどこにもない。
 けれど、同性同士が家族になるための法的な代替手段はないわけではなかった。家や名前なぞはどうでもいい。けれど、自分には多少の財産がある。愛する人と法的に関係を結ぶことはやはり必要だ。

 バレエ・リュスの絶対的エースとかつて結婚にこぎつけた女性にとって、宝塚歌劇団のトップスターは、舞台の上の人であれど決して雲の上の人ではなかった。
 なんとしてでも手に入れたい。あの美しい薔薇の花を。──いや、タカラヅカならばすみれの花と呼ぶべきだろうか。…………

 
 最大の問題は、舞台の遠さではない。日本の遠さだった。
 飛行機を列車のごとく気軽に乗りこなすロモラといえど、太平洋を越えるとなればさすがにしょっちゅう遠征はできない。まずは手紙を書こう、と思い立った。かの愛しき“テーリー”は、英語かフランス語が読めるだろうか。読まれずに放置されては困る。日本語ができる人を探さねば。友人のエド・サリヴァンなら、きっといい代筆者を知っているだろう。