Writer/文筆家

【連載】『わたしが推した神』ACT3 Prelude

 

 ことばを、失った。

 しなやかで……
 猫のようで……

 いたずらっぽくて……
 キュートで……
 羽根のように軽く……
 鋼のように強く…………

 彼女がそんなふうに「神」を語ったのは、20年以上前のことだ。
 しかし。

 1958年11月。
 彼女は、ふたたびことばを失ってしまった。

 オーケストラ・ピットから響く『ホフマンの舟歌』のメロディに、はっと耳をそばだてる。
 この東洋の一国にも、劇場付のオーケストラがあり、なかなか聴き応えのある音色を奏でている。まずはそのことに驚かされた。おまけにこの劇場の巨大なことといったら。収容人数3000人超。ベルリン大劇場やニューヨークのメトロポリタン歌劇場にも引けを取らない。指揮者ヘルベルト・フォン・カラヤンやボリショイ・バレエ団の来日公演にも使用されているという。しかもそんな劇場が、大都市の真ん中ではなく、大阪から40分ほど列車に揺られた先の小さな温泉街にあって、連日の満員御礼を記録しているのだ。否が応でも期待が高まる。

 舞台幕があがり、現れたのはひと目でヴェネツィアとわかる舞台背景だった。アドリア海のかなたに見えるサン・マルクト寺院。灯りをともしたゴンドラ。運河にかかる大きなセットの橋。仮面を付けた人びと。あでやかな衣装をまとって踊りだす娘たち。たぶん、冬のカーニヴァルの光景だろう。
 タイトルは『戯れに恋はすまじ 』 。19世紀前半生まれのフランスの戯曲家、アルフレッド・ド・ミュッセ原作の作品だ。しかし、この演目は設定を大幅に作り変えているようだ。合唱付きの演劇をミュージカル仕立てにし、舞台はフランスの一地方から19世紀末のヴェネツィアに置き換えている。目の前に広がる風光明媚な水の都の一景に、彼女は思わず眼を細めた。

 よく知っている。
 19世紀末。彼女もまたその時代に生まれ、旧き良きヨーロッパの残照のなかで育ったのだ。ヴェネツィアの美しさはいまも昔も変わらないが、あの頃はもう還ってはこない。ジャック・オッフェンバックの優雅なメロディにくるまれた、偉大なる前世紀の記憶。

 でも。
 こんな人は、知らない。

「星かげあわく 街の灯は水にゆれ……」
 メゾソプラノ──というにはハスキーな、独特な深みをおびた声が聞こえるやいなや、客席の空気が熱を帯びる。舞台の全景を泳ぐようにさまよっていた観客たちの視線が、にわかに1点に集中する。
 橋の上に立ち、ゆっくりと歌い出したのは、ひとりの「男」だった。
 そう。疑いようもなく、「男」の役だ。ウエストの絞られたフロックコートと、白のスラックスが脚の長さを際立たせる。コートの裾を八の字にひるがえし、橋の上を、ゆったりと大股で歩いていく。ひと目で主役とわかる堂々たる風格と、故郷の風景を追う儚げなまなざしのコントラストに、あちこちから嘆息がもれる。

「ゴンドラは行く花につつまれて ベニス 水のベニスよ 忘れられぬ水の都よ……」
 お手本のようなペルディガン役、といえないでもない。本作ではロベルトと名を改めているこの主人公は、ウィーンで学位を得て帰郷したばかり。同じく故郷に戻って間もない幼なじみの従妹との結婚を期待されているが、彼自身は都会でプレイボーイに成り果てており、身を固めることに興味がない。遊び人ならではの軽薄な色気と、純愛にあこがれる本心を交互に匂わせつつ、最初のナンバーを歌う。いかにもラブ・ロマンスらしい幕開けだ。


 けれど。
 こんな人は、知らない。

 たとえ男装をしていようとも、生まれながらの男性ではないことはひと目でわかる。しなやかな曲線を描く首も、華奢な指も、まろやかな声も、疑いようもなく女性だ。太く優雅な眉、濃いブルーのアイシャドウ、スポットライトに照らされてつやを増す朱色の口紅。決して、生身の男性の姿に近づけようという化粧ではない。
 それなのに。この人はウィーン帰りのプレイボーイの青年を完璧に憑依させている。悪友のアルフレッドと軽口を叩きあい、小間使いの娘にちょっかいを出し、立て襟の下でキザったらしく笑い、軽薄な恋の戯れの果てに真実の愛に目覚めてゆく。こんなことがありうるだろうか。身体とは異なる性を「役」としてこんな風に表現するだなんて。

 

 いや、……
 記憶が逆流する。
 知っている。わたしはこんな人に人生でただ一度、出会ったことがある。
 1912年3月、ハンガリー・ブダペストの劇場で。

 その人は、黒い仮面の下に、女そのもののような妖艶なほほえみをうかべていた。

「似ている……」
 思わず、声を漏らす。
 もともと、切れ長の眼と高い頬骨ゆえに「日本人」というあだ名さえつけられていたかの人だ。舞台の上の日本人を見て、彼を思い浮かべるのは当然かもしれない。実際、目を伏せたときの表情はかなり似ている。小さくきらめく瞳が厚いまぶたに隠され、長い睫毛が頬骨にまで濃い影を落とす。
 でも、似ているのは顔だけじゃない。
 男性でありながら女性。女性でありながら男性。生まれながらの性と、役柄としての性。いったいどちらが本物で、どちらが仮面なのか。観ているうちにだんだんと混乱してゆく。
 これこそ、往年のヴァーツラフ・ニジンスキーの表現そのものではないか。

 もし彼女が、ハンガリーではなく日本に生まれ育っていたとしたら。
 彼女はすでに、女子校の噂話で、あるいはここに連れてきてくれた女友達からの耳打ちで、ひととおりの知識を叩き込まれていただろう。「宝塚歌劇ファン」として遵守すべきすみれ色のマナーを。入待ちと出待ちの場所を。拍手のタイミングを。ファンレターの送り先を。あらゆる抜け駆けのご法度を。
「決して、本人には近づかないこと」
 そう、近づいてはいけない。愛の吐露が許されるのは、ファン同士のおしゃべりや交換日記や少女雑誌への投稿だけ。欲望を欲望のままぶつけてはいけない。美しいわたしで。美しいあなたで。「あなたのファンです」「ありがとう」「また観に行きます」「ありがとう」。もし、わたしの顔や名前を覚えてくれたら、プレゼントを身にまとってくれたら、とてもうれしいけれど。でも、それ以上を望んではだめ。

 なにしろ彼女が心奪われたその主演女優は、宝塚歌劇のなかでも時の人だった。

 明石照子。愛称「テーリー」。
 ──宝塚歌劇団、第31期生、雪組男役トップスター。

 

 彼女は心の底では理解していた。
 バレエ・リュスのスターだったヴァーツラフ・ニジンスキーに対して、自分がどんな過ちをおかしたか。決して後悔してはいない。けれどもう二度とあんな真似は繰り返すまい。そう心に誓っていた。大丈夫だ、という確信もあった。ニジンスキーに並ぶ推しなんて、もう人生で二度と出会うことはないんだから。
 事実、あのアルルカンとの出会いから半世紀近くの歳月が過ぎてなお、彼女の推しは人生でただひとりだった。その後現れたどんなダンサーとて、歌手とて、役者とて、ニジンスキーほどには彼女の心を揺さぶらなかった。

 しかし、出逢ってしまった。
 しかも、その人は「女性」だった。

 もう繰り返すまい。
 その誓いは、推しの性別の前に、そして彼女自身のセクシュアリティの前にあっけなく崩れ去った。

 万雷の喝采のなか、大きく腕をひろげ、優雅におじぎをする「神」を淡いブルーの瞳に映しながら、彼女は取り返しのつかないことばをふたたび世界に放った。

「結婚したい……!!」