Writer/文筆家

【連載】『わたしが推した神』ACT2-16 わたしが推した神

 

 リアと身体を重ねる時間は、ロモラにとって、どの精神分析や瞑想よりも自分自身の心と向かい合えるひとときだった。
 もっとも、わかったことよりわからないことのほうが、まだずっと多かった。
 いったいいつからなのか、という点からしても、はっきりしなかった。生まれ落ちた瞬間からすでにそういう属性を持っていたのだろうか。それとも違うのだろうか。大人になってから、その傾向が判明する事例はあるのだろうか。
 精神医学者の見解は割れていた。ジークムント・フロイトは、同性愛はやがて異性愛にたどり着くまでの自然な通過点だと言っている。一方でフロイトかぶれの町医者たちは、その考えを曲解し、子どもや少年少女期のうちにその芽を摘まねば健全な成長が阻害されると大騒ぎしていた。同性愛者は生まれながらの性的倒錯者だと断じる学者もいれば、成人してからも矯正や治療が可能だという学者もいた。

 ロモラにとってはその全てがピンとこなかった。第一、通過点という意味でいえば、自分はフロイトが唱える道のまったく逆をたどっている。
結婚したい……!
 かつてそのことばを発したとき、自分はまだ無知で、見えている世界は狭く貧しかった。40歳になろうといういま、やっとそれに気がついた。自覚するのが遅すぎたが、仕方がなかったとしかいいようがない。自分の人生にとっては、この壮大な回り道は必要だったのだ。
 いま、ようやくこの手に答えの輪郭が降りてきつつある。それはリアのおかげだった。彼女が身をもって与えてくれた経験に感謝しなければならない。
 わたしの本当の望みは、ヴァーツラフ・ニジンスキーとの「結婚」ではなかったのだ。


 しかし、リアはロモラに予想外の執着を示すようになっていった。
 ロモラは戸惑った。彼女がロモラをベッドに導いたのは、あくまでも友愛ゆえだと思っていた。むしろ、うっかり彼女に本気で恋しないようにしよう、とロモラのほうが用心していたくらいだった。マネージャー兼、女友達兼、セックスフレンド。わたしの資質を見抜き、自覚させてくれた人。それ以上を望んだら、悲しい思いをするのは自分のほうだ。
 ところが彼女の心は思いがけない方に転がり始めたようだった。
「ねえ、早く旦那と別れてよ」
 リアはそんな無茶を口にするようになった。最初はあくまで冗談っぽく、しかし次は真顔で、やがてはロモラの二の腕に爪を立てんばかりの勢いで。世界を呑みこむようなその大きな瞳を見つめていると、うなずく以外の選択肢が許されないような気になってくる。
「ロモラ。わたしとずっと一緒にいて。ニジンスキーと、あのオランダ人の娼婦のことはもう忘れてほしいの」
 オランダ人の娼婦?
 誰かと思ったら、どうやら女友達のフレデリカ・デツェンチェのことらしい。彼女のすすめでニジンスキーの伝記プロジェクトを始めたのが気に食わないのだろうか。どうやらリアは、フレデリカが同性愛者だとにらんでいるらしい。性的な直感の鋭いリアがそう直感しているなら“当たり”なのかもしれないが、ロモラにとっては言いがかりもいいところだ。
 リアがパートナー関係を強く求め始めたのは、おそらく別の理由もあった。ストレスのはけ口として浪費に走ったリアは、約束した仕事の報酬──つまりニジンスキーの治療費を払わなくなっていた。彼が再入院しているクロイツリンゲンのサナトリウムの入院費はすでに滞納状態になっている。ホテル代は払っているようだから、完全なすっからかんになったわけではなさそうだが、要はロモラの夫に金を費やす気がなくなったのだろう。ニジンスキーと別れさせて自分の方に引き込んでしまえば、もう払う必要がなくなる。
 冷たく湿ったシーツから身を起こしながら、ロモラは重いため息をついた。
 いい仕事のオファーが来なくて悩んでいたのは知っていたのに、滞納の件で何度か喧嘩して、追い詰めてしまった自分も悪かった。謝ったところで、もう彼女の暴走はとまらない。夜を迎えるごとに、ロモラの身体に馬乗りになり、首を絞めんばかりにこうささやく。
「ねえ、わたしたち、小さな王様みたいに、3年いっしょに贅沢三昧で暮らしましょう」噛みつくようなキスが耳たぶに落ちる。「──それから、一緒に死ぬの」

 リアは精神を病んでいる。
 それはすでに察していた。もうひとりのマネージャー兼恋人であるヴァルター・ブルメンタールともうまくいってないようだったし、昔の恋人とも関係をこじらせて自傷行為に走った過去がある。マスコミからはゴシップ女王扱いだ。
 ニジンスキーとはタイプが違うけれど、このひとも治療が必要な人だ。普段のロモラならば、冷静にそう考えられただろう。病院に連れて行ってあげてもいい。世に芸能マネージャーは数多いるが、自分くらい精神科医や病院や患者に慣れた人間はいないだろう。きっと、いい治療法を一緒に探してあげられる。
 それなのに、ロモラは催眠術にかけられたように、リアから吹き込まれたことばをぐるぐると頭に巡らせていた。

 一緒に、死ぬ。

 実際、それしかないのかもしれない。
 だって、結局のところ、自分はこんな形でニジンスキーを裏切ってしまった。相手が同性だろうが異性だろうが、不貞であることに変わりはない。しかもそんな事態に陥ったせいで治療費を滞納して、彼の療養生活を危機的な状態に晒しかけている。
 いや、それ以前の問題だ。そもそも、全てが嘘だったのだ。彼と結婚したいわけじゃなかった。つまりは、愛していなかったということだ。同性としか愛し合えない。同性としか関係を持てない。そうなのだとしたら、自分が人生をかけて信じていた愛はぜんぶ自分自身が作り出したまやかしだった。取り返しのつかない重大な過ちに気づいてしまった以上、人生のゴールはここなのかもしれない。
 わたしは21歳のときアルルカンに出会って以来、ずっと、この断崖絶壁に向かって走ってきたのだ。
 
 リアは追い打ちをかけるように、毎日毎夜、愛撫とともにロモラにこう吹きこみ続けた。
「もしニジンスキーの方を選ぶなら、あなたは彼と一緒に餓死するしかない」
「あなたはわたしのもの。さもなければ、あなたはずっとひとりぼっち」

 ホテルの薄暗い部屋の片隅で、ロモラは孤独と恐怖に打ち震えていた。
 世界が遠い。母も継父も姉も、ふたりの子どもたちも、そしてニジンスキーも。
 ごめんね。ごめんなさい。わたしはあなたを愛していないし、あなたの治療費ももう払えなくなってしまった。これはわたしのせい。リアに何かがあったら、それもわたしのせい。すべてわたしという愚かな人間が招いた不幸。もうこの世の誰に見せる顔もない。
 みんな、わたしが死んだら、それで許してくれる?

 ──死んではだめ。
 どこかでそんな声が聞こえた気がした。
 ──他人の思惑に流されてはだめ。あなたはあなたなんだから。

 声の主はフレデリカだった。
 部屋から引きずり出されたロモラの眼に、朱い絨毯を敷いた、長く一直線に続く廊下が飛び込んできた。ここはいったいどこ? パリ・シャトレ座の舞台袖から楽屋に続く廊下? スイスのビンスヴァンガーのサナトリウムの廊下? 南米大陸に向けて航走するアヴォン号の船室の廊下?
 一歩進むごとによろめき、崩れ落ちそうになる自分の身体を、フレデリカが何度も引っ張り上げようとする。ロモラは溺れかけた人のように腕をばたつかせた。彼女にしがみつこうとしているのか、振り払おうとしているのか、自分でもわからない。叫び声の代わりに喉から出てきたのは、こんなことばだった。

 わたしはニジンスキーを愛してはいない。
 ──本当にそう?

 わたしはニジンスキーを裏切ってしまった。
 ──彼はそんな風に思わないんじゃない?

 その思いがけない返答に、ロモラはうっすらと目を見開いた。
 ニジンスキーのことばが胸によみがえる。
もしきみが、ぼくよりもずっと愛している人に出会ったら、すぐにぼくに話してほしい。もしその人がきみの愛を受けるにふさわしければ、ぼくはどんなことでもしよう
 そうだ。ニジンスキーはそう言ったのだ。ブダペストでの軟禁生活で。戦争に胸を痛め、子どもの世話をし、緻密な舞踊譜を書き、百姓女のダンスを踊り、フランス語を覚え、正気を保っていた最後の時間のなかで。
 あのときは、なぜそんなことを彼が言ったのか全くわからなかったけれど。

 ──性愛を分かち合えなかったら、夫と妻という立場で家庭を築くパートナーになれなかったら、それは愛ではないのかしら?

 気がつけば、そこはニューヨークの大通りだった。
 マンハッタン、西57丁目。バッキンガム・ホテルの目の前。通りのすぐ先にはカーネギー・ホール。セントラル・パークに沿って角を折れて、大小の劇場が立ち並ぶブロードウェイを行けば、その先にはメトロポリタン歌劇場。軟禁生活から解放されたニジンスキーが、数年ぶりに舞台の上であざやかな跳躍を見せた芸術の殿堂。歓声をあげるニューヨークの観客たち。満足げに顎をさする歌劇場の支配人。自分も彼のように踊りたいと夢見るレオニード・マシーン。そして、これぞわたしの推し、と感激で胸をいっぱいにするロモラ。

 あれからもう、10年以上の歳月が過ぎた。
 フレデリカは、道のかなたをまぶしげに仰ぐロモラの耳にこうささやいた。

 ──ヴァーツラフ・ニジンスキーはあなたの最愛の「推し」。
 それは彼を舞台の上で見つけてから今まで、ただの一瞬も変わらなかったでしょう?


 ロモラは、脚の震えを深呼吸で懸命に和らげながら、ひとりで再びホテルへと戻った。
 エレベーターの中で、フレデリカのことばをお守りのように繰り返す。 他人の思惑に流されてはだめ。 わたしはわたし。そして、推しは推し。
 スイート・ルームの重いドアを開けると、ブランデーと煙草の入り混じった匂いが強く鼻をついた。白い背中をあらわにしてベッドに寝そべるリアの横まで歩み寄って、精一杯の勇気を振り絞ってこう告げた。
「わたしは聖なるニジンスキーのために、彼が病んでから13年の歳月を捧げてきたの。14年目でそれをやめるわけにはいきません」

 リアは荒れた。嵐のように荒れた。もうロモラも、もうひとりのマネージャーのブルメンタールも彼女をなだめられなかった。ブルメンタールいわく、リアは先ごろ彼にも強引に結婚を迫り、それを断ったところハンガー・ストライキに持ち込まれて大変な状態になったという。彼女はそばにいたマネージャーふたりに手を出し、性的な関係に持ち込んだのに、最終的にはどちらからも人生のパートナーになることを拒否されたのだ。
 ハンガー・ストライキの影響だろうか。粗悪な密造酒で体調を崩すにとどまらず、摂食の状態もすでに正常ではなくなっていた。ロモラの拒絶から2日後、リアは食事中にふいに喉をかきむしり、ひどく苦しみだしてそのまま卒倒した。細く弱った喉に鶏肉の骨をつまらせてしまったのだ。ロモラとブルメンタールは血相を変えて医者を呼んだ。
 しかし傷ついてしまった彼女の臓器は、その後の2度の手術を経ても回復しなかった。4人の医師が手を尽くしたにもかかわらず、2度目の術後から1週間もたたないうちに容態が悪化し、あっという間に亡くなってしまった。1931年11月末のことだった。公には32歳と称していた彼女は、実際には35歳だった。

 セント・パトリック大聖堂での葬儀を取りしきり、わずかな遺品と遺産を処理するために故郷ハンガリーの遺族と連絡を取り合うやりとりが一段落つくと、ロモラはただただ呆然とした日々を過ごした。
 きみたち、うっかり道連れにされなくてよかったよ。周りの人びとはそう言ってロモラとブレメンタールを慰めた。彼女はそういう運命の人だったんだから、と。けれどロモラの自責の念は消えなかった。わたしが彼女の死を早めてしまったのかもしれない。拒絶するにしても、もっといい方法があったにちがいない。彼女はわたしの本質に気づかせてくれた人だったのに。

 そんなロモラのそばにいてくれたのは、フレデリカだった。
 すらりとした上背に柔らかな金髪を垂らしたこのオランダ人の娘は、大富豪のフランス人の彼氏と別れてまで、ロモラに寄り添ってくれていた。
「あなた、わたしとなんか居てもいいことないよ。心休まらないでしょうし、贅沢だってできないんだから」
 年上の女らしく、煙草をふかしながら懸命に格好つけてそう言っても、フレデリカはどこ吹く風といった様子で飄々とこう返すのだった。
「だって、あなたに恋してしまったんだもの」
 ロモラは目をまるくした。夜更けのグリニッチ・ヴィレッジかハーレムのナイト・クラブならさておき、真っ昼間のセントラル・パーク沿いのカフェで、こんなにも堂々と言っちゃうの?
 いまどきの若い子は違う。ロモラが覗くことさえためらっていた深淵を、深淵とも思わずにやすやすと飛び越えていく。時代は変わるし、ひとも変わるのだ。いままでも、これからも。精神科医は相変わらず同性愛は治療可能か不可能かと論争しているし、ブロードウェイではラストシーンで心中するレズビアンの芝居が上演されているが、現実はそのずっと先を行っている。リアとふたりきりで地獄の淵をぐるぐるとさまよっていた頃の荒涼とした心は、ゆっくりと回復していった。
 美味しいごはんを食べる。よく眠る。散歩に行く。フレデリカに矯正されて、いかに自分の生活が混沌としていたかを知った。煙草に火をつけようとすると、悪戯っぽく取り上げられる。
「そろそろやめたら? 健康によくないもの」
 ファム・ファタールがいないように、聖女だってこの世にいない。もちろん、「オランダ人の娼婦」だって。だとしたらこの娘はいったいなんだろう。満身創痍の四十女の前に現れた謎の天使。全部、自分の妄想だったらどうしよう。

 それにしても、 結局リアからすっぽかされてしまった数年分のニジンスキーの入院費はどうやって工面しよう。幸い、サナトリウム側は支払いを気長に待ってくれているけれど。
 考えあぐねていると、ちょいちょいと肩をつつかれる。
「そろそろ、書いたらどう?」
 書く?
 きょとんとしているロモラを、フレデリカは呆れ顔で見つめ返した。
 忘れちゃったの? 計画していたじゃない。ニジンスキーの伝記。
 書いて、そして、売りましょう。あなたが語る、あなたの推しの物語を。いまがそのときじゃない?

 ロモラがリアと出会い、まだ一マネージャーとして働いていた頃、バレエ・リュスは大きな変化が起きていた。
 セルゲイ・ディアギレフが亡くなったのだ。
 1929年8月19日。彼は、ヴェネツィアでの休暇中に急激に体調を崩して亡くなった。パトロネスのミシア・セールと、最後の愛人たちであるボリス・コフノとセルジュ・リファールが看取り、ココ・シャネルが葬儀代を支払った。
 優秀なダンサーも振付家も山のように在籍していたのに、幹部のセルゲイ・グリゴリエフは翌9月に再契約なしの通知を関係者に送った。事実上の解散宣言だった。失業したダンサーやスタッフには厳しい生活が待ち受けていたが、バレエ・リュスはディアギレフあってこそのカンパニーだ、とするグリゴリエフの判断に異議を唱える者はいなかった。芸術やバレエへの深い造詣。一級の音楽家や美術家や作家を集めて化学反応を起こす天才的なセンス。そして男性ダンサーへの性的な欲望をともなった愛。そうした彼のパーソナリティなくして、このバレエ団は存続し得ない。
 プロデューサーが生を終え、愛することをやめたとき、彼が築いた拠点地なき帝国もまた終焉を迎えた。
 その後、世間からの要請に応じて、残された人びとはそれぞれの形でバレエ・リュス作品の再上演や団の再結成に向けて尽力した。1931年には、団の振付師のひとりであったジョージ・バランシンの手によって、バレエ・リュス・ド・モンテカルロが誕生している。
 パフォーマーたちはさまざまな手段でバレエ・リュスの芸術の保存と継承をはじめていた。しかし、ファンのまなざしから黄金時代を書き留めておくことも必要なはずだった。なにぶんニジンスキーには映像が残されていない。誰かが語らなければ、あれほど多くのファンを虜にした彼の伝説は消え去ってしまうかもしれない。

 ふたたびロモラはペンを執った。
 何から始めよう。心に浮かんだのはやはり、自分が最初に観た彼の姿だった。

しなやかで……
 猫のようで……

 いたずらっぽくて……
 キュートで……
 羽根のように軽く……
 鋼のように強く…………

 1912年3月、ブダペスト。舞台の上で大きく跳び、女のようにしなを作り、生き生きと躍動するアルルカンを思い出しながら、ひとつひとつ言葉を選び取っていく。
 ハーバード大学を卒業したばかりの若い芸術愛好家リンカーン・カースティンが、ゴースト・ライターをつとめたいと名乗り出てくれた。のちにニューヨーク・シティ・バレエ団を設立し、文筆家としても精力的に活躍する人物だ。英語ネイティブかつ文才に恵まれた彼の力を借りて、伝記の執筆は順調に進む。彼はカウンセリングさながらロモラから巧みにことばを引き出し、文章に磨きをかけていった。
 きっと、いい伝記に仕上がるだろう。ロモラは、アメリカじゅうの書店にこの本が並ぶ姿を幾度も空想した。無事にそのときを迎えられたら、献辞にはフレデリカの名前を書きたい。

 フレデリカは病弱だった。だいぶ前から結核を患っていて、もう何度もサナトリウムで療養生活を送っている。ニューヨークの気候もあいまってか、この1932年の冬は特に調子を崩していた。あなたの伝記の完成を待っていたいけど、いつどうなるかわからない。そう淡々と言った。
 もちろん、だからといって一緒に死んでほしいなんて言わない。夫と別れろとも言わない。 彼女はニジンスキー に対して特に嫉妬の感情はないらしい。──だって、あなたの人生からニジンスキーを取ったらいったい何が残るっていうの?
 代わりに、ロモラがこう言った。
「小さな家を買って、一緒に暮らしたいね」
 フレデリカはただ笑うのだった。そうだね。
「みんな死んだら、わたしと、あなたと、ニジンスキーと、3人で暮らせればいいのに」
 フレデリカはまた笑うのだった。そうだね。

 故郷ブダペストの母エミリアには、こんな風に手紙を綴った。
「わたしはもう、自分が男の子か女の子かもわからないの」
 男の子か女の子かわからない。ハンガリーの古いことわざで「わけがわからないほど忙しい」という意味だ。けれどそこには、暗にこめられた別の真意があった。はたして、母は何かを察してくれるだろうか。
 こうも書いた。
「すべての人間には、自分の人生を耐え抜くためにできる限り自身を整えるという大事な権利と義務があると思うの。外国で、自分をサポートして生きなければならないときは尚更そう。だから、わたしは自分の息が絶えるまで、ただ自分の義務に専念するだけ」
 権利と義務。それは、ロモラにとっては推しの魅力を自分の手で表現し、この世に送り出す夢を叶えることだった。

もしきみが、ぼくよりもずっと愛している人に出会ったら、すぐにぼくに話してほしい
 あの忘れがたいことばも、カースティンに伝えて伝記のなかに挿入してもらった。
 ひょっとしたら、ニジンスキーはうっすらと感づいていたのかもしれない。妻にとって自分が性愛の対象ではないことに。彼自身は、結婚の動機はどうであったにせよ、禁欲的なトルストイ主義にかぶれた時期もあったにせよ、わたしの身体を男としてきちんと愛してくれたのに。いつも優しく、気を遣って、精一杯の努力をしてくれたのに。わたしはそれにまったく応えられていなかった。
 応えられる相手に出会って、はじめてそれに気がついた。

 ごめんね。わたしは男性からの愛を前に、ニンフのように身をすくませるしかなかった。
 ありがとう。そんなわたしの手を離し、そっと逃げ道を作ってくれて。

 眠る少女を揺り起こそうとする薔薇の精のように、ロモラはフレデリカの背中に自ら腕を伸ばす。彼女は金髪をひるがえして振り返り、すぐにロモラを抱きしめ返した。キスを求めてくる彼女を見つめて、ロモラはまたひとつ「答え」が胸の奥で形を成していくのを感じた。ヴァーツラフ・ニジンスキー。わたしはあなたと同じ魂の持ち主だったのだ、と。1912年3月、舞台に躍り出た男とも女ともつかない異形のアルルカンを目にした瞬間、わたしはわたし自身に出会い、わたし自身を愛するための苦難の旅に出発したのだ。

ぼくは、人生で経験するすべてのことは、真理を追い求める態度を持ち続けているかぎり、必ず精神を高めるものだと信じているから
 ありがとう。ディアギレフと自分とのかつての関係をそんな風に率直に語ってくれて。
 ありがとう。わたしは遠い未来からそのことばを確かに受け取った。
 
 わたしはこれからも、あなたを守り、あなたを推す。
 そして、あなたが表現した世界を世に伝え続ける。
 あなたの芸術は、わたしのような人間もこの世界で生きていいというメッセージだから。

 遠いスイスのサナトリウムでのベッドの上で、独りまどろむニジンスキーの姿をいまいちど想いながら、ロモラは胸の内でつぶやいた。
 あなたはいつまでも、永遠に、わたしが推した神だ、と。


 ACT3の連載は11月5日(金)からスタートします。
 

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「わたしが推した神」エピソード一覧