Writer/文筆家

【連載】『わたしが推した神』ACT2-11 世界は春を迎えたのに


 
 猛烈な勢いで「ことば」を綴りだしたのは、ロモラではなく彼女の推しの方だった。


 バレエ・リサイタルを終えた日の晩。自分のベッドに寝そべり、枕の上にノートを広げると、ニジンスキーは一気に鉛筆を走らせた。
 疲れているはずなのに。
 夢中になって舞踊譜や円の集合体や舞台背景のアイデアを描いている彼は、これまでに何度も見たことがある。だが、これほど一心不乱に「ことば」を書き付けている彼を見たのははじめてだった。
 寝返りを打つふりをしながら、頭を彼の枕元に近づけ、薄目をあけて中身を見ようとしたが、鼻先でぱたんと閉じられてしまった。むくれながらもういちど寝返りを打ち、わざとらしく咳をする。
 わたしを眠らせたいなら、あなたも書くのをやめて、眠って。そう訴えるために。

 ニジンスキーは、散歩や食事にもそのノートを持ち歩いた。まるで今までの聖書や十字架がノートに取って代わったかのようだった。あっという間に1冊を使い切り、新しいノートを買ってくると、彼は最初のノートをこっそりと戸棚の後ろに隠した。ロモラはその光景を見逃さなかった。
 いまがチャンス。
 ニジンスキーが部屋を出ていったすきに、ロモラはそっと手を差し入れた。
 めくりはじめてすぐ、ため息をついた。ロシア語はだいぶ話せるようになっていたが、読むのは苦手だし、ネイティブの走り書きを解読するのは至難の業だ。彼の目を盗んでのごくわずかな時間では、単語を拾い読みするのがせいぜいだった。「ディアギレフ」。それから「」という語がたくさんある。
 ところどころに「」という単語を見つけて、少しほっとした。彼の意識のなかに、自分はちゃんと存在しているらしい。少なくとも、今はまだ。

もしきみが、ぼくよりもずっと愛している人に出会ったら、すぐにぼくに話してほしい
 ニジンスキーのことばが胸によみがえる。
 驚きのあまり、仏露辞書を膝の上でぎゅっと握りしめたロモラの前で、彼は淡々とこう言ったのだった。
その人がきみの愛を受けるにふさわしければ、ぼくはどんなことでもしよう

 そのことばに倣うならば、わたしもニジンスキーを「神」に譲らなければならないのだろうか。
 アルルカンや薔薇の精や牧神の彼を忘れられず、陰惨な戦争を踊りたがる彼を愛せないならば、もう彼を推すのをやめるべきなだろうか。
 それが、推しを推す者のつとめだろうか?

 その疑問を、ロモラはすぐさま胸のうちで打ち消した。
 ちがう。
 だって、彼がいま恋い焦がれ、身を投じようとしている「神」の正体とは──病魔だもの。
 病ならば、医学の力で治さなければ。フランスではちょうどいま、戦争の調停のための講和会議が行われている。世界各国の首脳が、先の戦争がもたらした被害を整理し、和平と復興のために話し合っている最中だ。ようやく、世界に平和が戻りつつある。だとすれば彼だって、精神に負った傷を癒すべきタイミングなのだ。

 一心不乱に鉛筆や万年筆を走らせるその横顔を、ときおり目を開けて見つめる。
 ニジンスキーの変化が舞台上のパフォーマンスだけならばさておき、そうでないことはもう明白だ。いまこそ、現代の精神医学の叡智でもって、かつての彼を取り戻さなければならない。

 リサイタルから1ヶ月半後──3月のある日。
 ロモラはサン・モリッツのかかりつけ医フレンケルから、内密に紹介状を受け取った。「子どもを作るための検査がしたい」──そう嘘をついて、ニジンスキーを大都市チューリヒまで連れて行く。初日は彼をホテルに残し、ひとりでタクシーに乗った。向かった先は郊外のブルクヘルツリ病院だ。院長のオイゲン・ブロイラーは精神医学の大権威で、1911年に『スキゾフレニアの概念』という研究書を著している。ニジンスキーのような大芸術家ならば、臨床事例として喜んで診てくれるだろう。

 その予感はあたり、院長は直々の面会を受け入れてくれた。問診は2時間にもおよび、ロモラは彼からの怒涛の質問に答えた。まるで自分自身が「診断」されているようでどぎまぎした。
 フレンケルからの紹介状には、ニジンスキーの現在の病状についても書かれていた。彼の専門は内科とスポーツ医学で、精神医学に関してはアマチュアだったが、ニジンスキーの精神状態の分析と改善に努力を砕いてくれていた。こっそりと例のノートを渡して、中身を見てもらったこともあった。
 暴力はあるか、と訊かれて、ロモラは答えた。
「いいえ。ただ、ニジンスキーは何かをしてほしいときに、具体的に指示しないタイプなので、周囲との誤解が生じやすい人だとは思います」
 バレエ・リサイタルについても質問を受けた。
「観客の証言によれば、彼はエロティックな表情を浮かべたり、布を投げたり、ネクタイを足に巻いたりしていたそうですね」
 ロモラは不安になった。先日のニジンスキーのパフォーマンスは、たしかに陰惨なテーマを扱ってはいたが、バレエ・リュスの作品を見慣れていればそこまで突飛ではない。バレエを知らない客たちにあらぬ誤解を与えてしまったならば、訂正しなければならない。

 ロモラの話を聞き終えたブロイラーは、ごく静かな声音でこう言った。
「天才と狂気──両者はとても近い関係にあります。ですから、お話いただいた病の兆候は、それだけでは精神障害だと断定できませんね」
 ──つまり、本人に会ってみなければわかりません。

 医者ならば当然口にするセリフだが、ロモラはすっかり安心しきってしまった。よかった、病気じゃないかもしれない! いまはちょっと神経が昂ぶっているだけ! そう、わが推しは天才なだけなんだ!
 翌日、ロモラはホテルからニジンスキーを連れ出して、ふたたび病院に行った。昨日は女性の検査、今日は男性の検査というわけだ。ニジンスキーが診察室へ入っていくのを、ロモラは待合室から笑顔で見送った。すると、ほんの10分足らずで診察室の扉が開き、ほほえみを浮かべたブロイラーが顔をのぞかせた。
「奥様。昨日、お薬を差し上げるのを忘れてしまいました。ちょっとお入りを」

 ニジンスキーと入れ替わって、ロモラは診察室に入った。扉を後ろ手に閉めた院長の顔からは、笑みが完全に消えていた。
「奥様。気をしっかりお持ちになってください。お子さんを連れて、すぐに彼と離れる必要があります。それから、離婚もお考えになったほうがよろしいでしょう」
 呆然として、ロモラはブロイラーの顔を見つめた。
彼は混乱しており、強いヒステリーと攻撃性が認められます。ダンサーゆえに、体力があるのでなおのこと危険です。家庭の義務から解放されたほうがよいでしょう。ありのままにさせるべきです
 それはロモラにとって、治せない、と言われているのと同義だった。

 ありのままにさせる? ありのままにさせたら、この人はプロデューサーから搾取されたり、カルトに洗脳されちゃったりするんですけど?
 わたしはもう7年も、そんな彼を必死で守ろうとしてきたのに。


 ブロイラーの言葉が耳に入らない。診察室の丸いテーブルが、カルテの横に置かれたインク壺の底が、ブロイラーの瞳が、記憶のなかのパステル画が、ぐるぐると目の前をまわりだす。ねえ、はやくこの円の回転を止めて。止めてったら。そのためにわたしはここへ来たのに。

 悪いことに、チューリヒにはロモラの母エミリアと継父オスカーも一時的に滞在していた。姉のテッサが、バレエ・リサイタルでのニジンスキーの不穏な精神状態を彼らに告げ口して、ブダペストから呼び寄せたのだ。
 普段なら追い返すところだったが、今はそうはいかなかった。目下、ブダペストは危険な社会情勢にあった。戦争によってオーストリア=ハンガリー帝国が解体し、ハンガリーはいったん共和国として独立したものの、不安定な政情が続き、いまやソビエト下にあるハンガリー共産党に政権を乗っ取られかけていた。もうすぐ革命が起きるだろうという噂さえあった。
 命からがら逃げてきた彼らに、帰れとは言えない。

 その躊躇いが仇になった。案の定、診断結果を聞いたふたりは大騒ぎを始めた。
「離婚! 離婚!」
 故国がソビエトに乗っ取られるかもしれないという恐怖から、彼らの反ロシア感情にもまた拍車がかかっている。ロモラはホテルのベッドの隅に丸まって耳をふさいだ。何を言ったって、無駄だから。

「お願い、せめて彼と2人きりの部屋に閉じこもるのはやめて」
 母親の懇願には逆らいきれず、その夜、ロモラはやむなくエミリアと同室で眠ることにした。すると夜中に、激しくドアを叩く音がする。
「妻に会いたい、妻に会いたい!」
 ドアノブのがちゃがちゃという音が部屋じゅうに響く。もちろん鍵はかかっているが、壊れてしまいそうなほどの勢いだった。
強いヒステリーと攻撃性」「体力があるのでなおのこと危険」──ブロイラーの声が頭をよぎった。ベッドから飛び起きたエミリアは、ロモラに抱きつかんばかりにおびえきっていた。普段はあれほど気の強い母なのに。

 怖い。
 そう思ってしまった自分に激しくショックを受けた。ニジンスキーが旅行鞄の中にナイフを入れていたのをふと思い出す。ただの鉛筆削り用だとは知っていたが、それを思い出してしまった以上、どれほどドアを叩かれても開けることはできなかった。
 しばらく経つと、ノックの音も気配もなくなった。朝が来て、今度はロモラが彼の部屋をノックしたが、反応がまったくない。今度は部屋に立てこもってしまったようだ。食事を運ぶホテルマンだけは中に入れたが、それ以外の人との会話を彼は拒否し続けた。そのまま、まる1日が過ぎた。

「警察を呼んで、こじあけてもらおう」
「病院に強制入院させるしかない」
 母と継父が相談している声が背後から聞こえてくる。すぐに離婚させるのは無理にせよ、ともかくふたりを引き離して、彼を病院に入れてしまおう。その結論に達したらしい。ロモラは完全に憔悴していた。どれほど抵抗したところで、彼らを追い出すのも、ブロイラーの指示に逆らうのも、もう無理だと観念するしかなかった。
 
 世界は春を迎えつつあるのに。わたしは、ついにニジンスキーを失ってしまった。