Writer/文筆家

【連載】『わたしが推した神』ACT2 Interlude


 ニジンスキーは踊る。踊り続ける。
 円を描いてまわり、観客たちを戦争へと、破滅へと導いていく。
 苦痛と恐怖を目の当たりにし、避けられない終焉からなんとか逃れようと、鋼のような筋肉と、敏捷な身のこなしと、稲妻のような勢いでもって、虚しくも懸命にあらがう。
 それはいうなれば、死に直面した生の踊りだった。……

 ロモラがそんなふうに「神」を語れるようになるには、まだもう少し時間が必要だった。
 それでも。
 ことばは、すでに湧き上がりだしていた。

 ブダペストで最初に彼のダンスを目の当たりにしてから、7年の歳月が過ぎていた。
「結婚したい……!」
 そのことばは、運命となって彼女の人生を突き動かした。

 そしていま、彼女の夫となって久しいその人は、たったひとりで椅子の上に腰をおろしていた。
「神と結婚する」──その新しいことばに自身をゆだねるために。

 ヴァーツラフ・ニジンスキーは動かない。中央に置かれた椅子に腰掛け、身じろぎもせず、ただ目だけを動かして観客ひとりひとりの顔を見つめる。スヴレッタ・ハウスの広間には、200人あまりがごったがえしていた。そのひとりひとりと、無言の対話をするように、ゆっくりと眼を合わせていく。

 ピアニストは当惑していた。もう開演から30分経ってしまった。「弾いてもらう曲は本番中に言う」と告げられたけれど、まさかこんな状況になるなんて。
 この沈黙を破れるキャストは自分だけだ。ためらいながらも、鍵盤にそっと指を這わせはじめる。ショパンのマズルカを、ウェーバーの『舞踏への勧誘』を。偉大なる19世紀を記憶し、20世紀初頭のバレエ界に再びよみがえった音楽たちを、広間に召喚する。さあ、準備は万端。あとはダンサーが踊ればいいだけ。

 それでもニジンスキーは動かない。
 女性ピアニストの青白い手が冷や汗でじっとりと濡れている。ロモラは意を決した。ピアノの前を離れ、そっと椅子まで歩み寄って、彼の耳元にささやく。

「どうか、はじめてちょうだい。ね?」
 1912年、ブダペスト。ロベルト・シューマンの『謝肉祭』の音楽にのせて、長い長い前世紀の残照のスポットライトを浴びながら、あなたはひょっこりと舞台の上に現れた。黒い仮面をつけて、筋肉が浮き上がって見えるタイツと、風のように軽やかなシャツをまとって。
 さあ、あのときのように、踊って。
 あのときのように、わたしたちを幸せにして。

 ところが、ニジンスキーは火が付いたように叫んだ。
「ぼくの邪魔をしないでくれ。ぼくは機械じゃない。自分が踊りたくなったら踊るんだ!」

 呆然としてロモラは立ちつくした。
 200人の観客が、眉をひそめてこちらを見ている。 よろめきながら椅子から離れ、足早に広間を横切り、重たい扉を押し開けて外へ出た。この舞台をウィーンから観に来てきていた姉のテッサが、心配してあとを追ってきた。ピアニストの夫も困惑顔でやってくる。
「ねえ、いったい何が起きたの?」
「ニジンスキーさんはどうしちゃったんだい?」
 ふたりから質問攻めに遭いながら、ロモラは震えていた。
「わからない。彼を家に連れて帰りたい。どうしたいいと思う?」

 あなたがあの日、イタリアの喜劇に登場するキャラクターを踊ったとき。
 観客のなかに「ロモラ」がいたことを、あなたはまだ知らなかった。
 ルネサンス時代のフィレンツェに生きた賢き娘の名前を譲り受けた女が、あなたに焦がれ、舞台に向かって腕を伸ばしたことを。どうかいっしょに連れて行って。わたしを。はりぼての成金屋敷からも、愛のない婚約者からも逃がして、未知の世界へ連れて行って。
 ──もうあの日抱いた夢は、希望は、この手に戻ってこないのだろうか。


 扉の向こうで空気が動く気配があった。
 3人は顔を見合わせ、爪先立って広間に戻った。ニジンスキーは椅子から立ち上がっていた。仕立て屋が運んできたそのままの、筒状に巻かれた黒と白のビロードを手に取り、踊りながら床に転がした。ひとつは縦に、ひとつは横に。

 十字架だ。
 その中心に立ち、自らも両腕をひろげて全身で十字をつくりながら、彼は口を開いた。

「これからぼくは戦争を踊ります」
 200人の観客へ向けて、彼はことばを投げた。
「戦争の苦しみを、破壊を、死を。あなたたちが反対しなかった戦争、それゆえに、あなたたちにも責任がある戦争を」

 そしてニジンスキーはふたたび踊り始めた。
『ペトルーシュカ』に少し似ている、と、ロモラは思った。道化が人形師から逃れようともがきながら踊る、悲哀のダンス。もう何度も、舞台の上で、リハーサルで、この踊りを目にしてきた。
 
 でも。
 こんな世界は、知らない。


 アレクサンドル・ブノワのカラフルな舞台セットや衣装はないのに。振付師のミハイル・フォーキンもいないのに。バレリーナ人形も、ムーア人形も、魔術師もいないのに。ほかのソリストやコール・ドのダンサーもいないのに。プロデューサーのセルゲイ・ディアギレフもいないのに。
 みんな、彼を利用して、そしていなくなってしまったのに。

 はっとロモラは息を呑んだ。
 ニジンスキーの背後に、彼らがいる。腐敗した死骸の山となって。暗灰色の荒涼とした野で、彼はひとり舞っていた。その姿は、精霊のように儚げでもあり、虎のように獰猛でもあった。

 バレエ・リサイタルのチケットを買った観客のほとんどは、戦争の混乱を逃れてサン・モリッツにやってきた裕福なリゾート客だ。彼らの黙殺の罪を告発するように、それぞれの眼に陰惨な血の世界を焼きつける。ある人の眼には皇太子フランツ・フェルディナントの胸にあいた巨大な銃痕を。ある人の眼には銃口を向け合う若者たちのおびえた背中を。ある人の眼には飢えた幼子たちのうつろな顔を。
 これが、彼の表現する新しい世界。
 わたしたちも、責任を持たねばならない世界。

 こんなあなたは、知らない。
 これほどにあがくあなたは。そして、これほどに無力なあなたは。これほどしなやかでありながら、これほど妖艶でありながら、一方であなたは軍の行進を窓から眺めながら首を垂れる無力な芸術家でしかない。あのブダペストの軟禁生活のなかで、アメリカ・ツアーのなかで、そしてスイスでの堅牢な山々に囲まれたこの保養生活のなかで。あなたはずっと苦しんでいたのだ。
 知らなかった。
 あなたを安全な場所に閉じこめて、あなたの芸術を守っているとわたしが傲慢にも自負していた間、あなたの精神はぼろぼろになりながら時代の前線にずっと存在していたのだ。

 こんな自分も、知らない。
 その現実を前に、これほどにあがくわたしも。そして、これほどに無力なわたしも。世界を傷つけてしまった責任の重みに身動きが取れなくなってしまったわたしも。
 それでもなお、あの1912年の出会いの瞬間以来、抱いてきたたったひとつの願いを手放せないわたしも。
結婚したい……!!

 けれどいまあなたは、わたしの手を離して、「神との結婚」を果たそうとしている。

もしきみが、ぼくよりもずっと愛している人に出会ったら、すぐにぼくに話してほしい。
 軟禁生活のなかでニジンスキーが放ったことば。
 つまりは彼のほうが、その対象に出会ってしまったということだろうか。
 血の海に恐れをなして、あとずさりするわたしを置いて、舞いながらどこかに行ってしまう。

 どうして。あなたこそが神だったのに。わたしがこの人生でたったひとり推した神だったのに。
 あなたがいま結婚しようとしている神とは、いったい誰なのだろう?


きょうは、ぼくが神と結婚する日なんだ
 さっき、車の中で、あなたは取り返しのつかないことばを放ってしまった。

 だとすれば、1913年の夏はいったい何だったの?
「あなたと、わたしと、……」
 マイムをまじえたあのぎこちないプロポーズは、取り返しのつかないことばではなかったのだろうか。

 ──いったい、わたしは彼のために何ができる?
 幾度も崩れ落ちながら、なおも踊り続けるニジンスキーを見つめながら、ロモラは考えていた。

 まだ、彼女は自分が放った過去の言霊を信じようとしていた。
 自分の胸から新しい「ことば」が湧き上がりはじめていることには、気が付かないまま。