Writer/文筆家

【連載】『わたしが推した神』ACT2-10 変わりゆく世界、変わりゆく推し

 暗がりのなかで、ロモラはゆっくりとまぶたを開いた。
 まだ朝はだいぶ遠い。けれど目は冴えていた。枕の上から、じっと天井を見つめる。ここがブダペストの実家でも、ブエノスアイレス行きの夜行列車でも、大西洋をわたる客船でもないことにほっとした。スイス北東部の風光明媚なリゾート、サン・モリッツの別荘だ。丘の上にある堅牢な家は、世界から隔絶されたかのように静かだった。戦場を飛び交う銃声も、大都会の喧騒も、アルプスの山々に護られたこの場所には届かない。
 ふと、寝息の音がしないのに気がついた。
 首を横に傾けると、闇のなかにうっすらとニジンスキーの影が浮かび上がった。
 彼もいつの間にか目を醒ましていたらしい。 一対の切れ長の瞳が、窓からこぼれる月光を受けて不気味なほどに輝いている。 まるで、劇場の平土間席から舞台上の彼を仰ぎ見ているかのようだ。

 ああ、いとおしい、わたしの推し。
 わたしはずっとずっと、あなただけを見つめてきた。

 でも……。
「あなたはわたしを見守ってくれているのかな」
 つぶやいた声は、弱々しく寝室の靄のなかに溶けて消えた。
「わたし、おかしいみたい。どうしたらいいかわからないの」声が震える。「お願い、わたしを守って。自分ではそんなことしたくないのに、誰かを傷つけてしまいそうで」


「気になさるほどではございませんよ。もしお望みでしたら、神経科の医者を紹介しますがね」
 サン・モリッツ在住のロモラのかかりつけ医フレンケルは、やさしくそう言った。
 気休めではなく、本心でそう言っているように見えたので、ロモラは胸をなでおろした。
「感情がなくなっていく気がして。神経衰弱にかかっているかもしれないと思ったんです」

 南米ツアーを終えたあと、スイスでの静養生活を望んだのはロモラだった。サン・モリッツは子どもの頃からよく訪れたリゾートだったし、きっと、自然を愛するニジンスキーも喜ぶにちがいない。ツアーで稼いだお金はあるし、しばらくは彼も自分もしっかりと休もう。どのみち戦争はまだ続いていて、ヨーロッパで活動できるチャンスは限られている。またディアギレフの術中にハマって、ドサ回りで消耗させられてはかなわない。
 山に囲まれた場所は窮屈だ。最初はそんな不満をもらしていたニジンスキーも、ほどなくこの場所がすっかり気に入って、ウィンタースポーツを楽しむ日々を送った。問題はロモラの体調だけだった。北米と南米の過酷な旅の疲れが出たのか、寝込んだり入院したりの日々が続いた。そのあいだ、ニジンスキーは家事をすべて引き受け、キュラの面倒を見たり、シチューを作ってくれたりした。



 そうこうしているうちに1年が経ち、世界大戦はドイツの降伏によって終結した。開戦から4年の歳月が過ぎていた。これでまた、ダンサーとして自由に活動できる。パリをはじめとする世界各地の興行主からも、様子伺いの手紙が続々と届きはじめていた。
 ニジンスキーは、絵を描くことで創作へのインスピレーションを高めているようだった。大判の紙の上に、パステルや木炭でたくさんの円を描く。いくつも重なった円は、ときに人間の目鼻やお腹らしきものを形作った。故意なのか、偶然なのか。できあがった1枚は、ペトルーシュカの哀しげな顔によく似ていた。
円はすべての原理なんだ」と、彼はロモラに熱弁した。意味はよくわからなかったが、手仕事にハマると夜更しして没頭するのは、ブダペストで舞踊譜を書いていたときと同じだ。創作意欲がみなぎっている証拠だろう。

 あとはわたしが善くなればいいだけ。体調が優れなくて、心も弱ってしまったのだ。
 彼の足手まといにならないように、心身ともに早く元気にならなきゃ。

 そう自分に言い聞かせた。

 ところが高級リゾートでの穏やかな暮らしは、ある日曜日を境に断ち切られた。
 午前中、ロモラは外出のための身支度をしていた。ニジンスキーは朝早くから出かけていて、外で会う約束になっている。昼食のリクエストを使用人たちに伝えるために台所へ入っていくと、彼らはテーブルを囲んでひそひそと話し込んでいた。奥様の気配を察して、ぴったりと口をつぐむ。
「やだ、どうしたの?」
 つとめて明るく問いかけると、気まずそうな沈黙のあと、釜炊きの使用人が口を開いた。
「奥様。俺はガキのころ、ニーチェ様の使いっぱしりとして働いてたんすけど」
 1900年まで存命だったドイツの哲学者フリードリヒ・ニーチェ。彼はかつて、サン・モリッツからほど近いシルス・マリア村に住んでいた。
「あれはたしか、ニーチェ様が病院に連れていかれちまったほんの少し前のことなんすけど」彼は意を決したように言った。「ニーチェ様は、いま旦那様がやってるのと同じことをしていたんすよ」

 ロモラは別荘を飛び出し、村に向かってつづく石畳の坂道を駆け下りた。いつもならスイスの絶景の山々を眺めながらのんびりと下るところだが、今日はそれどころではない。ゆるやかにうねった小道の向こうにニジンスキーの姿を見つけ、思わず息を呑んだ。
 使用人たちが言ったとおりだ。ニジンスキーは、道行く地元民たちに片っ端から声を掛けまくっていた。
「ミサには行きましたか?」「行かなきゃだめですよ」「ねえ、ぼくと一緒に行きましょう」
 どういうわけか、胸にはピカピカの金色の十字架をぶらさげている。キュラのおもちゃだ。

「なにやってるの! トルストイおじいさんの真似なんてやめて!」
 止めに入ったロモラを、ニジンスキーはびっくりしたように見返した。自分は善行をしているだけなのに、何がいけないんだい? とでも言いたげに。ロモラの剣幕に気圧されて首の十字架はおとなしく外したが、なぜ止められるのかまったく理解できていないようだった。十字架を取り上げ、背中に隠そうとするロモラをじっと見つめて、それから口を開く。

「世間はみんなぼくの真似をする」
 ロモラは身をこわばらせた。
「ばかな女性たちは、ぼくのバレエの衣装を真似る。ぼくが遠いところを見るような目をしていると言って、化粧を真似る。そして、それが流行になる。そういう目をしているのは、単にぼくの頬骨が高いからなのに。どうしてぼくはもっとましなことを、彼女たちに教えてやれないんだ。ぼくは彼女たちに神を思い出させたいのに」
 淡々と、どこか憂いを含んだ声で、ニジンスキーは語り続けた。
「ぼくはいろいろな流行を作ってきたんだ。それなのに、真実を求めるべきだという流行をどうして作ることができないんだろう?」

 ことばを失ったまま、ロモラは立ちつくしていた。
「そうねえ。でも、今のはちょっと変わったやり方すぎない?」
 そう言って、笑顔でまぜかえせばいいのかもしれない。なだめるように夫の手を取り、何事もなかったかのように、楽しい休日のデートに出かける。たぶん、それこそがファンから妻になった女のつとめだろう。

 けれど喉の奥から、苦しげな別の声がこみあげる。いいえ、いいえ、ちがう。どうかそんなことは言わないで。
 わたしたちファンは、みんなあなたにちゃんと「神」を見た。世界の真実を見た。あなたのアルルカンに、薔薇の精に、牧神に、みんな救われたの。
 だからどうか、ばかな女性たちなんて言わないで。彼女たちのことを。そしてわたしのことを。

 それともあなたはもう、あのときとは別の真実を見ているの? トルストイ? それとももっと別の? …………


 この1年のニジンスキーの姿が脳裏によみがえる。
 運動神経の良さにまかせて、死に急ぐようにそりを走らせる。そうかと思うと家では、パステルを振りかざして、大量の円を描きまくる。
 家族にはやさしい。キュラにも、ロモラにも。けれど、何の前ぶれもなくおかしな発言に及ぶことが何度かあった。あるときなど食卓の席で、彼はキュラを突然叱りだしたのだ。
「知っているぞ。おまえはこっそりマスターベーションをしていたな。肉を食べるせいだ」
 まだ4歳のキュラには、その言葉の意味はわからなかっただろう。けれど温厚な父がいきなり怒り出したので、びっくりして泣き出してしまった。
 そうかと思うと、やっぱり男の子がほしいと言いだして、ロモラを一晩に何度も抱いた。以前と変わらず丁寧でやさしかったが、たびたびの求めに応じ続けるのは苦痛だった。早く終わってほしい、と思うこともしばしばだった。

 性にこだわるのは、新作に頭がいっぱいだったからだ、と思おうとした。ニジンスキーは、売春宿を舞台にした新作を創りたいと言い出していた。
「その売春宿には、性のあらゆるいとなみがある。男へ男を、女へ女を売ることだってある。ぼくはそうした群像を前に、愛の美しさと破壊について踊りたい」
 彼はそう熱弁した。
『牧神の午後』の作り手にふさわしい新作、といえないでもない。けれど、この執着はやはり尋常ではない気がした。

 執着、といえば。
 南米ツアーの終盤で起きた出来事がよみがえる。
「錆びた釘が落ちていた」「重い鉄のおもりが落ちてきた」「セットが地震のように揺れだした」──
 そう必死で訴えてくるニジンスキー。
 あのとき自分は、彼を無条件に信じようとした。けれど、あれは事実だったのだろうか。
 ニジンスキーが故意に嘘をついているとは思えなかった。でも、もし、彼が自分自身の妄想を信じ込んでいるのだとしたら。

 パステルで描かれた円が起点に帰っていくように、ロモラの胸の内で答えが導き出されていく。

「決して死んだりはしません。けれど、もっと悪い、恐ろしいことが……
 手のひらを見つめて戸惑うニジンスキー。どっと笑う周りの人びと。ごまかしちゃって。どうせわからないんだろう? 皆からつつかれても、からかわれても、青ざめた唇を震わせるだけの占い師ダンサー。

 おそらく彼には視えていたのだろう。ニジンスキーのゆるやかにうねる運命線の行方が。
 ニジンスキーは、だいぶ前から精神に変調をきたしていたのかもしれない。

「キュラの具合がよくないみたい。だからわたしのかかりつけのお医者さんを家に呼びたいの」
 ロモラの嘘を、ニジンスキーはまったく疑っていないようだった。「お父さん、ちょっと娘さんのことでお話が」医者からそう呼びとめられて、ごく平静な顔つきでキュラの部屋に入っていく。すでにロモラから相談を受けていたフレンケルは、しげしげとニジンスキーの顔を見つめた。
 ──おや、お父さん。あなたも少しお疲れのご様子ですね。よろしければ、いいマッサージ師をご紹介しましょう。

 早くも翌日やってきた「マッサージ師」の正体は、国立精神病院から派遣された男性看護師だった。おとなしく上着を脱ぎだしたニジンスキーをドアの隙間から見て、ロモラはほっと胸をなでおろした。

  ロモラには、精神科医にかかることへの抵抗や偏見はなかった。
 ジークムント・フロイト。アルフレッド・アドラー。出産の際に滞在したウィーンでは、著名な精神科医の名前や、彼らの治療法の効果をいくつも見聞きした。精神や心理の探求は時代のトレンドでさえあった。
 早く手を打って、元通りに回復すればそれでいい。身体の病気やケガとまったく同じだ。

 実際、治療の効果はめざましかった。「マッサージ師」が来るようになってから、ニジンスキーの様子はすっかり落ち着き、おかしな言動は一切なくなった。南米ツアー中に探偵を雇ったら、ぴたりと被害を訴えなくなったときと同じだ。
 それどころか、優雅にお茶を飲みながら、ごく穏やかにこんなことさえ言うのだった。
「今までは、ちょっと狂気を演じていただけなんだ。なにしろ舞台が恋しくて」

 舞台が恋しい。それだけは本当だろう。ニジンスキーはパリへ再び行くことを夢見ていた。ダンサーとしての彼がもっとも成功を収め、輝きを放った街。ロシアに帰りたい、ではないことにロモラはほっとした。

「けど、パリに行く前にひとつやりたいことがある」ニジンスキーは鳥のように大きく腕を広げ、はためかせた。
サン・モリッツにいる人たちのために、バレエ・リサイタルを開催したいんだ

 公演の準備はすぐに整えられた。
 このリゾートにダンス向きの劇場はないので、スヴレッタ・ハウスというホテルの美しい広間を借りた。出演するのはニジンスキーとピアニストひとりだけ。ロモラが懇意にしているイタリアの仕立屋をわざわざこの村まで呼んで、絹やビロードを次々と運び込む。終演後のお茶の手配も万全だ。

 舞台のイメージを、ニジンスキーはこう説明した。
「観客は、いつも『完成された作品』 を受け取るばかりだ。でもぼくは、振付のあいだじゅう芸術家につきまとう創造の苦悩を彼らに見せたい。衣装だって、観客の目の前で作るんだ」
 そう言いながら、何ヤードもの布を腕や胴体に巻きつけてみせる。現代でいうインスタレーション・アートのようなコンセプトだ。

 ロモラは不安になった。観客をびっくりさせる演出はもちろん歓迎だ。けれど、演目をスタッフやピアニストにも内容を伝えないのでは、本番中にみんな困ってしまうだろう。
「ねえ、どの曲を伴奏したらいいか、教えてくれない?」
 会場に向かう車の中で、ロモラは何度もしつこく尋ねた。するとニジンスキーは業を煮やしたように怒鳴り返した。
「その場で言うよ。黙っていてくれ!」

 自分に対して声を荒げるなんてはじめてだ。思わず身をすくませたロモラの横で、彼はうってかわったように静かな声で、こうつぶやいた。

きょうは、ぼくが神と結婚する日なんだ

 それはニジンスキー自身にとって、そしてロモラにとって、取り返しのつかないことばだった。