Writer/文筆家

【連載】『わたしが推した神』ACT2-9 あなたは嘘をつかない。

 北米ツアーを終えたニジンスキーは、なんとか洗脳から脱した様子でニューヨークに帰ってきた。──相変わらずトルストイ主義者が好むシャツを着ていたし、野菜ばかりを食べてはいたが、今回のツアーで得た報酬は「きみとキュラのため」と言ってそっくりロモラに渡してくれた。家族をないがしろにしたお詫びということだろう。
 ロモラは胸をなでおろした。

 ニューヨークに滞在しているうちに、ロモラはすっかりアメリカ生活に魅了されていた。船上で教えてもらったとおりだ。たしかにこの国には自由がある。キュラの面倒を保育士が見てくれているあいだ、ロモラは独身気分で街を闊歩した。結婚していなかったら、アメリカに移住して暮らす人生も楽しかったかも! 自分でお金を稼いで、小さなアパートメントを見つけて、気に入ったお洋服を誂えて……。

 だが、あのカルト2人組がいるバレエ団からは一刻も早く離れたかった。
 ヨーロッパに帰る直前、ニジンスキーはディアギレフからの電報を受け取った。そこには2つの要望が書かれていた。1つ目、彼が滞在しているスペインに来て公演に出てほしい。2つ目、来シーズンに予定されている南米ツアーに行ってほしい。……
「いや、いや、いや。スペインはまだしも、南米ツアーは絶対いやって伝えて!」
 ぶんぶんと首を振るロモラに、ニジンスキーはのんびりとこう答えた。
「大丈夫だよ。行くかも、と返したけど、まだ正式な契約はしていないから」

 スペイン・バルセロナに到着すると、ディアギレフは満面の笑みで現れてニジンスキーを抱擁した。やあやあ、お帰り。わがバレエ団のためにたっぷり奮闘してくれて、うれしいよ。

 ──しらじらしい。ストライキされるわ、洗脳されかかるわで、本当に大変だったんだから!

 ロモラはつんけんしていたが、ディアギレフは友好的な態度を崩さなかった。ニジンスキーに対してはもちろん、ロモラに対してさえ実の父親のように気さくに声をかけてきて、きみは芸術を見る目があるとか、仕事ができるとか褒めちぎる。不気味ではあったが、さすがに態度を軟化させないわけにはいかなくなった。ま、まあ、ひとまず和解ってことでもいいか。ギャラもちゃんと言い値でもらったし。
 ディアギレフに労をねぎらわれて、ニジンスキーはうれしそうだった。このドタバタのツアーを経て、彼は元恋人のプロデュースと運営の手腕にふたたび尊敬の念を抱き、関係を修復したいと思いはじめたようだった。将来はディアギレフと一緒にまた作品を創ってロシアで上演したい、とまで言い出した。どうやら農業生活の夢からはすっかり醒めたらしい。

 誘われるがまま、ニジンスキーはバレエ・リュスのバルセロナ公演にも出演した。例のカルト2人組も参加しているが、ディアギレフの監視の目がある限り、まとわりつかれることはないだろう。ロモラは自分で自分に呆れていた。なんてことだろう。ディアギレフが側にいてくれて安心だと思うだなんて。
 ニジンスキーは現エースのレオニード・マシーンとも親しくなった。「元カレの今カレ」と接する気まずさなど微塵も見せず、彼はマシーンに根気よく踊りのコツを伝授し、マシーンも彼を慕った。ディアギレフはそんな仲睦まじい2人の様子を満足げに眺めていた。愛するダンサーたちが手を取り、花のように微笑み合っている。おお、麗しきかな!

 しかし、そのつかの間の蜜月もあっという間に終わりを迎えた。
 ロモラの懇願を聞き入れて、ニジンスキーは来シーズンの南米ツアーには参加しないと決めた。今回もディアギレフは同行しないと聞いているし、重責を負わされるドサ回りはもうこりごりだ。
 ところが、その旨を伝えるべくディアギレフとの昼食会に出かけたニジンスキーは、青ざめた顔をして戻ってきた。もう南米ツアーの参加は決定していて、契約も済んでいる、と言われたという。
 契約書がないじゃないか。そう反論すると、ディアギレフは氷のようにひややかな笑みを浮かべた。
スペインでは、電報は拘束力のある契約なのだよ
 それは事実だった。ニューヨークで受けたバルセロナからの電報。あれに応えたとき、もう契約は成立してしまったのだ。
 最悪だ。本当だとしても、これでは嘘をつかれたのと同じだ。「逃げよう」というニジンスキーの声に、ロモラはうなずいた。急いで部屋の荷物をまとめ、むずがるキュラを抱き上げて、3人で駅に向かった。今夜も公演の予定があったが、ドタキャンでも構いやしない。

 しかし列車に乗り込むやいなや、ふたりの男が押し入って、ニジンスキーの腕をつかまえた。
「ニジンスキーさん、あなたを契約不履行で逮捕します」

 警察署に連行されるあいだ、ロモラはずっと地団駄を踏んでいた。
 してやられた。完全にディアギレフに騙されたのだ。しかも、これまでずっと契約を怠ってきたくせに、今度は契約を主張するようになるとは、なんて姑息なのだろう。
 前々からわたしたちを罠にかけようと企んでいたのだろうか。いったい、いつから?
 ロモラははっと息を呑んだ。わずか数日前だ。劇場の舞台裏の暗がりで、ディアギレフとズヴェーレフらしき人影が何か小声で話し込んでいるのを見かけたのだ。内容はわからなかったが、どこか密談めいた雰囲気が漂っていたのは覚えている。
 ひょっとして、ディアギレフとカルト2人組ははじめからグルで、北米ツアーで起きた事件はすべてシナリオ通りだったのではないだろうか?
 でも、いったいなんのために?
 高額なギャラを奪われたのが気に食わなくて、追い詰めて仕返ししたいの? まだ結婚の件を許していなくて、わたしと彼と引き裂きたいの? このまま肉も食べず、休む暇もなく、気力と体力を根こそぎ奪われるツアーに連れて行かれたら、ニジンスキーは本当に潰れてしまうかもしれない。

 南米ツアーは、セルゲイ・グリゴリエフが団長をつとめることになった。
 ニジンスキーに契約解除の電報を打った男だ。憎むべき人物ではあるが、ニジンスキーが団長ではなく一ダンサーとしての参加という形になったのはありがたかった。ディアギレフも鬼ではなかったようだ。ただ単に南米ツアーの戦力になってほしいだけだったのかもしれない、とロモラは思い直した。今回はキュラもローザンヌの保育施設に預けることができたし、その点でも旅の負担はずっと少ない。
 うれしいことに、今回はマエストロ・チェケッティも旅に帯同していた。ニジンスキーはもちろん、ロモラにとっても最愛のバレエの師だ。小柄なイタリア紳士は、船上のデッキの上でロモラを呼び止め、優しく微笑んだ。
「あの“太陽 ” はあなたを温かくしていますか?」
 ニジンスキーのことだ。ロモラは静かに答えた。
「ええ、あたくしはとても幸福ですわ。問題はディアギレフの態度だけです」
「彼については、わたしもどうかと思っています。ロシア人にはどうも得体の知れないところがありますな」チェケッティは神妙にうなずいた。「それはそれとしてね。あなたはバレエをやめずにレッスンを続けてもよかったと思いますよ。とても優れた生徒でしたから」
 カルト2人組のひとり、コストロフスキーは完全にパワーダウンしていた。南米ツアーが始まってからというもの、どうも具合が悪いらしい。精神疾患かてんかんだろうという医師からの診断を受け、ツアーを離脱してロシアに送還される運びになった。不謹慎ではあるが、その出来事もロモラをほっとさせた。

 ところがツアー先のブエノスアイレスで、ニジンスキーはロモラにこんな訴えをはじめた。
舞台上に錆びた釘が落ちていて、踏んでしまったんだ
 ロモラは驚いて聞き返した。
「なんでそんなものが舞台にあるの?」
 ニジンスキーも首を傾げた。
「たぶん、ただの事故、かな?」 
 しかしそれだけでは終わらなかった。別の日、彼はこんな風に訴えてきた。「練習していたら、重い鉄のおもりが落ちてきたんだ。すばやく飛び退いたから、なんとか当たらずに済んだ」
 またある日はこう訴えた。
「『ペトルーシュカ』のラストで、ぼくが人形劇の小屋のところに立っていると、セットが地震のようにグラグラ揺れはじめた。マエストロ・チェケッティが抱きとめてくれなかったら、落ちて足を怪我していたところだったよ」

 さすがに耳を疑った。でも、ニジンスキーはあくまで真顔だ。
「“彼ら” を責めないでやってほしい。自分が何をしているのかわかってないんだから」
 単なる偶然ではなく、誰かが故意に自分を陥れようとした、と考えているらしい。
 南米各地を巡業して回っている最中だから、劇場関係者や現地の人とは考えにくい。つまり、バレエ・リュスの内部に犯人がいると言いたいのだ。

 まさか。
 バレエ団のメンバーはみんな自分勝手でわがままだ。我は強いし、ストライキやボイコットもするし、喧嘩もしょっちゅうする。とはいえ、ダンサーの命である肉体を故意に傷つける者がいるとは思えなかった。
 それなら、ディアギレフの差し金? いやいや。彼だってそんな真似はすまい。バルセロナの劇場の舞台袖からニジンスキーの姿を仰ぐ彼の目は、一介のファンとまったく同じ輝きを放っていた。ジャンプしたその先に釘が落ちていれば、誰よりも早く駆け寄って拾い上げ、舞台係を怒鳴りつけるだろう。たとえどれほど憎んでいたとしても。

 ねえ、そんな嘘はやめて。
 喉から出かかった声を引っ込める。「嘘」──そのことばは、カルト2人組やディアギレフの悪行を罵るときだけに使いたかった。彼の訴えは、そのどちらとも関係ない。ニジンスキーを世界一正気だと信じて疑わなかった、ブダペストでの軟禁生活を思い出そう。
 いまにも泣き出しそうなニジンスキーの目をロモラは見つめ返した。大丈夫。洗脳されかかったときとは違って、いまはちゃんとわたしの顔が映っている。わたしは何があっても推しを信じて、守ろう。
「それは大変。なんとかしなきゃ」
 
 ロモラは旅に同行していた弁護士に事を打ち明けた。
 経緯を説明しているうちに、不思議と当初の疑いの気持ちはなくなっていった。それどころか、自分もその光景を目撃したような気にさえなった。弁護士も真剣に話を聞いてくれている。
 彼はロモラとニジンスキーにこう提案した。
「この被害を警察に話して、探偵を用意させましょう」

 すると、そのような事件は起きなくなった。
 より正確にいえば、ニジンスキーはけろりとしたように訴えをやめた。
 警察の捜査の結果、舞台背景がじゅうぶんに固定されていないなどの細かなミスがあったことも発覚した。問題は実際にあったのだ。そしてそれは、誰かの故意の犯行ではなかった。よかった、よかった。しばらく忘れることにしよう。
 

 けれど、胸のざわつきが完全におさまったわけではなかった。
 昨年暮れの北米ツアー中の出来事を、ロモラはぼんやりと思い返していた。ロシアでは、大晦日に「新年のイブ」と称して占いをする習慣がある。占いに明るいバレエ団のメンバーのひとりが、ニジンスキーの手相を見ることになった。すると、ルーペをのぞきこんだ彼の顔がみるみるうちに青ざめていく。ニジンスキーはいぶかしげに訊いた。
「なんですか? ぼくは死ぬんですか? 話してください」
 しかし彼は首を振るばかりだった。
「いや、そうじゃない、決して死んだりはしません。けれど、もっと悪い、恐ろしいことが……」

 せめて、その「もっと悪い、恐ろしいこと」がこれで終わりでありますように。
 ブエノスアイレスの教会の前で、ロモラは静かに目を閉じた。そこは、ロモラとニジンスキーが4年前に結婚式を挙げた場所だった。